風の歌を聴いて―夢見る女子高生が出会った“音と言葉”

智沢蛸(さとざわ・たこる)

第1章 君がいた夏は

小野おのさん、いますかー?」


6月のある日の東京都立浅緋野高校2年B組の教室。

昼休みの平穏な空気を破って、聞き慣れない声が教室に響いた。

小野えみはその声の方を振り向いたが、昼休みの人波に遮られ、姿までは見えなかった。


「……小野さんなら、窓際の方に……あ、いた。

おーい、小野さーん。この人たち小野さんに用があるってよ。」


クラスメイトの圭一けいいちが取り次いでくれた。

見覚えのない3人組が、彼女のもとに近づいてくる。

――いや、どこかで見たことがある。

たぶん他クラスの生徒だ。

記憶の端っこを辿り、彼らが軽音楽部だったことを思い出した。


「小野さんだよね?」


先頭の女子が、迷いのない足取りで近づいてくる。


「はい……あの、なにか?」

「私、吉野よしのかなで。2年D組、軽音楽部。こっちは大竹おおたけ高倉たかくら。」

「ども。」

「よろしく。」


ふたりが軽く会釈をする。

大竹と呼ばれた少年は前髪が長めで、どこか軽そうな雰囲気をしている。

もうひとりの高倉は短髪で、表情が硬く、あまり言葉を発しなさそうだ。


(あ、文化祭で演奏してた人たちだ。)


楽器を抱えていたステージ上の姿と、今の彼らがようやく結びついた。


「実は、ちょっとお願いがあって――」


奏が、期待に目を輝かせながら切り出す。


「お願い……ですか?」

「うん、私たち今オリジナル曲作ってるんだけど、歌詞を誰かにお願いできないかなって。で、漫画研究部の友だちに聞いたら――

松岡まつおかさんが小野さんのことを激推ししてくれて。」

「え、素子もとこが?」


笑が戸惑って横を見ると、隣の席の素子がサンドイッチを頬張ったまま、無言で親指を立てていた。


「ちょ、ちょっと素子、何勝手に……!」

「だって、笑ならできるでしょ。文章得意じゃん。詩もよく読んでるし。」

「読むのと書くのは違うんだけど……。」

「いいじゃん、やってみなよ。別に今すぐ書けってわけじゃないんだからさ。」


奏が笑の困惑を和らげるようにくすっと笑った。


「そうそう。9月の文化祭に間に合えばいいの。松岡さんが、“小野さんなら間違いない”って。」

「えー……そんなこと言ってた?」

「言った。」


素子は食べ終えたサンドイッチの袋をくしゃっと丸めて、決め顔でうなずいた。


「……まあ、考えてみる。」


笑がようやくそう答えると、奏は満足げに微笑んだ。


「ありがと。じゃあ、返事待ってるね。……あ、そうだ。一度、部活に遊びに来てよ。

見るだけでもいいから。昼休みも放課後も、だいたい音楽室でやってるから。」


奏たちは手を振りながら去っていった。

嵐が去ったあとのような静けさの中、笑は素子を振り返る。


「……本当に、私でよかったのかな。」

「いいの。そういうのって、頼まれた時点で運命なんだから。」

「運命って……。」


大袈裟な、と笑い飛ばせなかった。

頼まれるというのは、選ばれるということだ。

それはどこか、自分でも気づいていなかった扉をノックされたような感覚だった。

なにかが始まる予感に、笑の心の奥がふわりと揺れた。




放課後の音楽室。

扉の前に立つと、隙間から微かに音が漏れてきた。

ギターの音、スネアドラムの跳ねる音、ベースが低く響く。


「ここか……。」


笑は思わず身をすくませた。

ここは、自分のような人間が足を踏み入れていい場所なのだろうか。

場違いなところに来てしまったという後悔が、じわじわと胸を締め付ける。


​「……やっぱり、帰ろうかな。」


笑がそっときびすを返そうとした、その時だった。


​「なんだ、まだ入ってなかったのか。堂々と入っていけよ。」


不意に背後から声をかけられた。

振り返ると、そこには掃除用具を片手に持った圭一が立っていた。


​「あ、圭一君……。でも、中がすごく盛り上がってるみたいだから。」

「いいんだよ、音楽室なんて騒いでナンボだろ。」


​圭一は迷うことなく手を伸ばすと、笑の返事を待たずに「おらよ」と重い防音扉を勢いよく押し開けた。


​――途端、爆音と熱気が笑の全身を包み込んだ。


​「ほら、行けって。みんな待ってるんだろ?」


熱気と振動が、まるで風のように全身を撫でていった。


「小野さーん!」


音の波の中から、声が飛んできた。

ベースを抱えた吉野奏が、満面の笑みで駆け寄ってくる。


「いま、他のバンドの順番なんだけど、次うちらだから……ちょうどよかった。見てって!」


笑がうなずくと、奏は手招きした。

黒板の前にはドラムセットとアンプが設置され、ステージ代わりになっている。

1年生らしき女子4人組が、真剣な顔で演奏中だった。



やがて、奏たちの番となった。

さっきまで談笑していた3人が、先程とは打って変わって真剣な表情になる。


大竹が一歩前に出て、ギターを抱え直した。

指先がそっと弦に触れて、深く息を吸う。


「♪君がいた夏は 遠い夢の中……」


——Whiteberryの「夏祭り」。


ああ、知ってる。

夏の定番ソングだ。

ギターの伴奏を背に、奏がしっとりと歌い上げる。

その声と音が、教室のざわめきを静かに押し流していった。


「♪空に消えてった 打ち上げ花火……」


高倉のドラムスティックが合図となり、音が跳ね、リズムが走り出した。

さっきまでの静けさを突き破るように、教室が一気に“夏”に塗り替えられた。


その瞬間、笑の視界がぐにゃりと歪んだ。





――――気づけば、浴衣を着ていた。

足元には草履の感触。

色とりどりの屋台が並び、人波がざわめく。

わたあめの甘い匂い。

金魚すくいの水音。

焼きそばの湯気。


……縁日の向こうから、威勢のいい掛け声と共にお神輿が近づいてくる。

ふと視線を落とすと、神社の鳥居を並んで歩く、高校生ぐらいのカップルが見えた。

Tシャツ姿の少年と、浴衣姿の少女。

手が触れそうで触れないな距離で歩くふたりの後ろ姿は、あまりにも自然で、この夏の夜にしっくりと溶け込んでいた。

その光景に、笑は言いようのない胸のざわつきを覚えた。

あんなふうに隣に誰かがいて、心から笑っていられること。

それは今の笑にとって、喉の奥が熱くなるほど、羨ましいものだった。


特に……あの浴衣の女の子。

さっきから気になって仕方がない。

背の高さも、歩き方も、どこか……自分に似ている気がする。


(……なんで、こんなに気になるんだろう。)


ふたりの間に流れる空気が、まるで何か大切なものを持っているようで。

笑は、自分でも理由のわからない感情に、ほんの少しだけ嫉妬していた。


そのとき、背後で空気を震わせる巨大な衝撃音が響いた。


――ドン!


振り返ると、漆黒の夜空に、鮮やかな大輪の花火が咲き誇っていた。

少女はそれを見上げ、眩しそうに少年を振り返り、優しく微笑んだ。




「――――空に消えてった、打ち上げ花火……」


現実に引き戻された。


笑は、ただ立ちつくしていた。

音楽って、こんなにも一瞬に景色を変えてしまうんだ。

たった一つの歌で、時間も場所も飛び越え、自分の中に眠る感情を暴き出してしまう。



――このとき、笑はまだ気づいていなかった。

この体験こそが、彼女の内なる“ことば”を呼び覚ます、最初の産声だったということに。




◇◆◇◆




【次回予告】


言葉にできない笑に、逆井先生は静かに告げる――「まずは自分自身に届けるつもりで書け。」

音楽室で待っていたのは、3年生・佐藤麻里亜の圧倒的な演奏。

“紅”に染まる旋律が、笑の心を裂き、走り出せと命じる。

そしてついに、笑は「歌詞を書いてみる」と決意する。



【作者メモ】


2026年最初の小説は、

夢見る女子高生・小野笑を主人公としたシリーズ最新作となる。

これまで笑は、文学作品の世界を旅をしてきた。

本作では音楽を舞台に、歌詞の世界を旅する。

その経験がやがて、彼女自身の“ことば”として現れてくる――

そんな過程を描いていく予定である。


高校時代、僕は友人たちとバンドを組み、文化祭のステージで演奏した。

また、高校教師としても軽音楽部の顧問を3年ほど務めたことがある。

本作には、そうした記憶や実感が静かに溶け込んでいる。


どうか、音と言葉のあいだで揺れ動く笑の成長を、最後まで見届けてほしい。

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