第八話 埃が舞っていた放課後の教室の匂い

 ライブハウスの楽屋口。

 冷たい鉄のドアに背中を預け、茜はコンクリートの地面に座り込んでいた。

 中はまだ後輩たちの打ち上げの騒がしさで満ちている。美月が誰かに慰められている声や、同期たちが「いやー、マジ感動したわ」と白々しく話している声が、壁一枚隔てて遠くに聞こえる。

 茜はそのどれもを聞きたくなかった。

 ただスポットライトで火照った顔を、三月の冷たい夜気が撫でていく感覚だけが、やけに生々しかった。


 ギターのケースを抱いているとケースの隙間からさっき切れた三弦が、だらりと垂れてきた。

 茜はその切れた弦の先端に、そっと指で触れた。チクリとした小さな痛み。

 その感触が引き金となり、忘れていたはずの。あるいは忘れようとしていたはずの記憶が堰を切ったように蘇ってきた。


◆◆◆


 ──高校一年の、秋。

 茜は新しいクラスにどうしても馴染めなかった。休み時間の教室は、楽しそうに笑い合うグループで満ちていて、茜の居場所はどこにもなかった。

 だからいつも教室の一番後ろの隅、窓際の席で、本を読んでいるフリをしながらイヤホンで耳を塞いでいた。大音量のギターだけが茜を現実から守ってくれる盾だった。


 あの日もそうしていた。

 轟音に浸っていると不意に肩を叩かれた。

 顔を上げるとそこに木本美月が立っていた。

 クラスの中心にいる快活でちょっと顔の良い女の子。

 いつも友達に囲まれていて、まぶしくて自分とは住む世界が違うと思っていた人。


「……なに?」


 用事でもあるのだろうか。

 なにか返し忘れたものでもあっただろうか。

 茜は緊張で声が上擦らないように、ぶっきらぼうに答えた。

 美月は臆するでもなく茜のスマホの画面を指差す。


「それ、もしかして『ブラインド・ノイズ』聴いてる?」


 心臓が跳ね上がった。

 『ブラインド・ノイズ』

 茜が当時、世界で一番かっこいいと信じていたイギリスのロックバンド。

 クラスの誰も、名前すら知らないはずの。


「……え、なんで……知ってるの」

「私も好きなんだ! まさか、この学校に知ってる人いると思わなかった!」


 美月は太陽みたいに笑った。

 それが、茜と美月の出会いだった。

 世界から拒絶されていると思っていたのは、自分だけではなかった。

 こんなに明るく笑う彼女もまた、この教室の誰も知らない音を愛していた。

 茜はその日初めて、この教室に自分の居場所ができた気がした。


 二人にはそれ以外に何の共通点もなかった。

 好きな服も、好きな食べ物も、友達のタイプも。でも音楽の趣味だけが、奇跡みたいに一致していた。

 放課後、二人はCDショップに入り浸った。

 茜がおずおずと差し出すマニアックなCDを美月は「あ、これ知ってる! こっちのバンドも絶対好きだよ!」と目を輝かせた。

 世界が色づいて見えた。


 ある日、美月が言った。


「私ベースやりたい。茜は、ギタボね!」

「え、私、歌なんて……」

「大丈夫! 茜の声、絶対カッコいいから! 私が保証する!」


 美月は茜を強引に軽音楽部に引っ張り込んだ。埃っぽい放課後の音楽室。

 茜がお年玉を貯めて買った中古の、それでいて安すぎるわけでもないシアンブルーのテレキャスターをぎこちなく弾く。

 美月がそれにつられるように、一本だけ弦を鳴らす。

 ひどい音だった。チューニングも合っていないただのノイズ。

 でも二人は顔を見合わせて、腹を抱えて笑った。茜は初めて自分がここにいてもいいんだと思えた。


 初めて二人でスタジオに入った日のことを茜は鮮明に覚えていた。

 防音扉を閉めた瞬間の完全な静寂。

 アンプの電源を入れた時のわずかなハムノイズ。そして、茜がギターのコードを美月がベースのルート音を鳴らした瞬間の鼓膜を突き破るような轟音。

 教室とも、家とも違う。

 世界中でここだけが私たちの場所だった。


 バンド名はすぐに決まった。「Cyan」。

 茜のギターの色。内に潜む冷たい青。

 「私たちだけの『本物』の色だね」と、美月が言った。

 そしてCyanの記念すべき一曲目である『シアン・ブルー』の歌詞は、二人で一緒に考えた。試験勉強そっちのけで、ファミレスのドリンクバーで粘った。


「『大人になんてならない』って、どうかな。少しくさいかもだけど」

「いいね! じゃあ私からは『錆びない鉄の翼』とか!」

「美月それかっこいい! 重そうだけど!」


 夕日が差し込む音楽室。

 茜がメロディを口ずさみ、美月がノートに歌詞を書きつける。

 二人は自分たちが無敵だと、本気で信じていた。

 この一瞬が、この関係が永遠に続いていくのだと。何の疑いもなく思っていた。

 いつかあの「Wonder Days」が立つステージに、私たちも立てるんだと。


「このまま一緒の大学に入って、バンド活動つづけてさ、そのまま超ビッグバンドなってさ、毎年紅白に呼ばれたりしてさ」


 美月が鼻息荒く二人の夢を語る。


「でもこうして熱中して夢も固まってるとさ。諦めなきゃいけない時とか怖いよね」

「大丈夫だよ茜。きっと今の熱量のうちじゃ、まだぜんっぜん続けられるから!」


 茜はその言葉にはにかみ笑顔を浮かべる。

 そして「約束」という風に、立てた小指で美月の小指を絡めとった。


「ぜったいに、解散とかはナシだからね」


 その時の斜陽のきらめきと教室の埃っぽい匂いは、今でも鮮明に覚えている。


「もちろん! これからもずぅっと一緒だよ!」


◆◆◆


 冷たい風が茜の涙で濡れた頬を撫でた。

 いつの間にか、泣いていた。

 茜はライブハウスの壁に額を押し付けた。


 ──全部、終わっちゃったんだ。


 あの頃の熱狂も二人だけの誓いも、永遠だと信じていた時間も。

 美月が泣き崩れたのは、きっと茜と同じように、あの眩しかった日々を思い出したからだ。

 でも彼女はステージを降りれば、また社会人の顔に戻る。

 あの新しい、黒いベースケースを持って、茜の知らない明日へと歩いていく。

 私だけがこの場所に、過去に取り残されていく。


 茜は切れた弦を強く握りしめた。

 鋭い痛みが走る。それを誤魔化すように茜は慌てて涙を拭い、打ち上げの喧騒には加わらず、重いギターケースを背負って一人、暗い夜道へと歩き出した。


 バンドに夢中だった頃は、いずれ有名バンドになるという夢が冷めてしまう時が来るかもしれないと思って怖かった。

 だって今、こんなにも本気なのだから。

 こんなの簡単に諦められるわけない、と。


 だけど、気付いた。

 夢を諦める時は、興味を失った時だった。

 だから美月も唯も、簡単に諦めた。

 そして茜も。

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