第九話 空っぽの部屋
四月。
あの日、美月がこの部屋を出ていってからどれくらい経っただろうか。
卒業ライブも、引越しの日も、まるで遠い昔の出来事のようだった。
茜はがらんどうになった美月のスペースを背にして、自分の布団の上で膝を抱えていた。
部屋は不自然なほど静かだった。
美月が立てるドライヤーの音も、同期と楽しそうに電話する声も聞こえない。
あるのは窓の外を走る中央線の、周期的な走行音だけ。
壁には高校時代に貼った「Cyan」のフライヤーが、色褪せたまま残っている。
『私たちは錆びない鉄の翼』その文字が、今の茜を嘲笑っているようだった。
茜は近所のコンビニで深夜のアルバイトを始めていた。
就職活動は結局しなかった。かといって音楽で生きていくという情熱も、あの最後のライブで切れた弦と共にどこかへ消えてしまった。
社会の歯車になるのは死ぬことだと思っていた。
ニートになるのは敗北だと思っていた。
今、自分はそのどちらでもない、ただ時間が過ぎるのを待つだけの中途半端なフリーターという存在になっていた。
深夜二時。バイトの休憩室で期限切れの弁当を無表情で口に運ぶ。
テレビからは聞き飽きた「Wonder Days」のCMソングが流れていた。
『明日はきっと晴れるから』
──うるさい。
以前はあんなに感じていた激しい嫌悪も、嫉妬も、今はもう湧いてこなかった。
ただ、雑音として耳を通り過ぎていくだけ。
心が何も感じなくなっていた。
バイトが終わる朝の五時。
東の空がシアンブルーに染まり始めている。
茜はその冷たい青色を、虚ろな目で見つめた。
あの頃美月と二人で「私たちだけの色だね」と笑い合った青が、今はひどく薄っぺらく、他人事のように見えた。
アパートに帰ると、郵便受けに美月宛の封筒が何通か届いていた。
もうここに住んでいないのに。茜は、それをゴミ箱に捨てる。
美月から連絡はなかった。最後のライブの後、泣き崩れていた美月は翌日にはケロリとした顔で荷造りを進め、そして出ていった。
結局、私だけだったんだ。
あの場所に取り残されていたのは。
部屋に戻り、茜はギターケースに手を伸ばした。
だが、触れることができなかった。
あのライブで切れた1弦は、まだそのまま放置されている。
新しい弦に張り替える気力も、新しいメロディを生み出す気力も湧いてこない。
ギターを弾くことは、美月との日々を思い出すことだった。
楽しかった記憶も、最後のライブの喪失感も、すべてが蘇ってきて息が詰まりそうになる。音楽は茜にとって、美月そのものだったのかもしれない。
茜はギターに触れるのをやめ、再び布団に潜り込んだ。
美月が出ていったスペースは、がらんどうのまま茜の孤独を映し出している。
──このまま、何も始まらず、何も終わらず、時間が止まってくれればいいのに。
茜は冷え切った部屋で、ただ目を閉じた。
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