第七話 シアン・ブルー

 茜は静かに首を振る。

 もう終わりだ。

 こんな茶番、一秒でも早く終わらせたい。

 そう思った、はずだった。


「……どうする? 茜、決めて」


 美月が、困ったような、それでいてどこか「早く決めてよ」とでも言いたげな声で促す。その声が茜の耳には、まるで「早くこっちに来なよ」とでもいう、遠い世界の呼びかけのように聞こえた。

 茜は、ステージ袖に下がりかけた足を、止めた。


 ──終わり? 本当に?

 このステージを降りたら、私たちは本当に解散する。

 美月は社会人になり、唯は奥さんになる。

 私だけが行き場所のないまま一人になる。

 あの冷たくて空っぽのアパートで求人誌を眺める明日が始まる。

 虚しいだけの現実が。


 ──嫌だ。終わりたくない。


 茜は唯に向かって、かすれた声で言った。


「……唯さん……下がってて、いいです」

「え?」

「美月だけ、残って」


 唯は一瞬驚いた顔をしたがすぐに頷き、客席の後方へと消えていった。

 ステージの上には茜と美月、二人だけが残された。

 客席のざわめきが、戸惑いの色を帯びていく。


「……茜? 何、やるつもり……」


 美月が不安そうな目で茜に尋ねる。

 茜は美月の方を見なかった。

 客席の暗闇の、その向こう側。

 高校時代の、あの埃っぽい放課後の音楽室を思い出していた。


 二人で初めて音を合わせた日。

 美月がお小遣いを貯めて買った中古のベースをぎこちなく弾いていた。

 Cのコードもまともに押さえられなかった私のギターと、弦の押さえ方すら怪しかった美月のベース。

 それでも二人の音が重なった瞬間、世界が変わったと思った。

 二人で初めてCyanという名前を決めた日。

 大好きだったバンドのCDを貸し借りし「私たちの方がもっとすごい曲、作れるよね」と根拠もなく笑い合ったあの日々。


 スポットライトがじりじりと肌を焼く。

 熱い。観客の視線が、突き刺さる。

 茜はマイクの前に立ち、静かに告げた。


「……アンコール、ありがとう。……最後の曲です」


 そして茜は、美月が「恥ずかしい」と拒絶したあの高校時代の曲「シアン・ブルー」を一人で弾き語り始めた。


「埃っぽい放課後の匂い チョークの粉が夕日に舞ってる」


 美月が息を呑む気配がした。

 茜は目を閉じて歌う。

 熱に浮かされたように、あの頃の記憶が蘇る。


 『私たちは錆びない鉄の翼』


 あの頃は本気でそう思っていた。


 『大人になんてならない』


 あんなに強く、美月と誓ったはずだった。


「叫べ シアンブルー 私たちは錆びない鉄の翼」


 声が震える。

 涙が溢れて視界が滲む。

 これは、観客に届けるための歌じゃない。

 失われていくあの日々と、自分を理解してくれなかったたった一人の親友に向けた最後の情けないあがきだった。


「こんな汚れた世界で 大人になんてならないと誓った あの日のブルー」


 歌声が裏返る。

 その瞬間、止まっていたはずの低いベースの音が静かに入ってきた。

 Bメロから。あの頃、いつもそうだったように。

 茜が驚いて横を見ると、美月は顔をくしゃくしゃにして泣きながら、それでも必死にあの頃のようにベースを弾いていた。

 客席の同期たちも後輩たちも、もう彼女の目には入っていないようだった。

 ただ、茜のギターの音だけを必死に追いかけていた。


 茜もぼやける視界で美月に向かって頷き、最後の力を振り絞って声を張り上げた。

 大声だった。もう、虚しくなんかない。

 ただこの瞬間が終わってほしくなかった。


「届け届け シアンブルー」


 もうすぐ演奏が終わる。

 飛び散る汗が、スポットライトに照らされて宙を舞う。


「鉄の重さで飛べなくたって いつもそこにいるブルー」


 茜が最後のコードを力任せにかき鳴らしたその瞬間。

 張り詰めていたギターの1弦が、甲高い悲鳴のような音を立てて切れた。


「─────────────────」


 演奏が止まる。

 最後の音が、ライブハウスの静寂に吸い込まれていく。

 拍手はなかった。客席も美月の同期たちもただ呆然と二人を見つめている。

 美月はベースを抱えたまま、その場に泣き崩れていた。


 茜は切れた弦を虚ろな目で見つめていた。

 終わってしまった。茜の大好きだったバンド。茜のモラトリアム。

 高校時代から支えてくれていたこのギターの弦が切れるのと同時に、二人を繋いでいた最後の糸も切れてしまったように感じた。


 アンプの電源が入ったままだったのか、美月が泣き崩れた時にベースのシールドが触れたのか、スピーカーの低いフィードバックノイズだけが虚しく響き渡る。

 茜はそのノイズの中で、マイクを通さず誰にも聞こえない声で呟いた。


「……ありがとうございました」


 そして泣き崩れる美月をステージに残したまま、一人静かにステージを降りた。

 スポットライトの熱だけが、まだ背中に残っていた。

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