第六話 ライブ
三月の卒業式も終わったある夜。
下北沢のライブハウスSHELTERは、特有の湿った空気と、染み付いたタバコの匂いで満ちていた。いくつかの大学の軽音サークル合同の卒業ライブと銘打たれたイベント。
楽屋は、安い酒の匂いとヘアワックスの匂い、そして終わっていく学生生活への感傷的な空気でごちゃ混ぜになっていた。
他のバンドのメンバーたちが泣きながら抱き合ったり、後輩に高価なエフェクターを餞別だと譲ったりしている。
そのすべてが、茜にはひどく白々しい茶番に見えた。
「茜、ネクスト、トリだから」
美月がスマホの画面から顔を上げずに言った。
彼女は楽屋の隅で今日初めて会ったらしい内定先の同期だという男女数人と談笑していた。清潔感のあるスーツ姿の彼らはこの薄暗い楽屋には不釣り合いで、まるで動物園の檻を覗き込むように物珍しそうに他のバンドマンたちを眺めている。
「美月さんマジでベース弾けんの? カッケー!」
「やめてよー、もう全然弾けないって。今日、恥かくだけだから!」
その楽しそうな輪に茜の居場所はなかった。
唯は楽屋のドアのそばで、婚約者とまだ電話をしていた。
「うんあと、んー、一時間くらい? で終わると思う……うん、ごめんね……」
彼女の意識は、もうここにはない。
「……Cyanさん、次お願いします!」
後輩のスタッフが慌ただしくバインダー片手に呼びに来る。
茜は無言で頷き、自分のギターケースを掴んだ。
美月も「じゃ、ちょっと行ってくるね!」と同期たちに手を振り、あの真新しい黒いハードケースを手に取る。
ステージ袖へ向かう短い廊下。
床は、こぼれた酒でベタついている。
前のバンドが残した熱気と汗の匂いが、むわりと押し寄せてきた。
「……唯さん、美月。最後、よろしく」
茜がぼそりと言うと二人は無言で頷いた。
もう、ライブ前に円陣を組むことも、目を合わせて笑い合うこともない。
三人はステージに上がる。
客席は思ったより埋まっていた。
サークルの後輩たちが、遠慮がちに前方を陣取っている。
その後ろで美月の同期たちが物珍しそうに、あるいは値踏みするように、腕を組んでステージを見ている。
茜はその光景を見て、急速に心が冷えていくのを感じた。
「────────」
スポットライトが熱い。
眩しくて、客席の顔がよく見えない。
誰も自分たちの音楽を聴きに来たんじゃない。
ただ、卒業という儀式に参加しに来ただけだ。
茜は、目の前のマイクスタンドだけを見つめた。
何の感情も湧かなかった。
かつてマイク前で感じていた高揚も、緊張も無い。
美月がベースの最終チューニングを終え、小さく頷く。
茜はカウントも取らずに、一曲目のかつては自分たちの代表曲だったはずのギターリフを弾き始めた。
「……どうも。Cyanです」
演奏が始まる。
以前合わせた時のように、熱量の無い演奏だった。
三人の心はもう、絶望的にすれ違っている。
美月は客席の同期たちを気にしてか視線が泳ぎ、表情が硬い。
唯は早く終わりたいという顔で、時計をちらりと見た。
茜は歌う。自分が書いた、あれほどこだわっていた歌詞を。
『信号が赤に変わる 僕はまだここにいる』
その言葉が、今はもうただの文字の羅列にしか聞こえない。
『追い越す喧騒は 正しい顔して前を行く』
客席は、どう盛り上がっていいのかわからない、というような気まずい空気で満ちていた。美月の同期らしきスーツの男が、あくびを噛み殺しているのが見える。
『取り残された僕ら ほんとは助けてと願ってんだ』
──今、私は何のために歌っているんだろう。
茜は思う。こんな音はWonder Daysよりも、もっと酷い。
彼らの音楽は偽善だとしても、少なくとも大衆を熱狂させる力がある。
しかし今の彼女らはどうだ。独りよがりで──否、その音楽は最早、茜にすら届いていない。
二曲目、三曲目。
セットリストが消化されていく。
最後の曲が終わり演奏が止まった瞬間、ライブハウスは一瞬の静寂に包まれた。
その後、申し訳程度の拍手がパラパラと起こった。
茜はその虚しさの中で、ただ立ち尽くしていた。
これで、終わり。
大学生活。
モラトリアム。
美月との日々。
全部、今、この瞬間に。
「ありがとう、ございました……」
茜がギターからシールドを引き抜こうとした、その時だった。
客席の前方にいた後輩たちが、必死にアンコールを叫び始めた。
トリの自分らに対する義理だとわかっていた。
けれど、その声は止まなかった。
「アンコール! アンコール!」
唯が心底面倒くさそうに「どうする?」と目で合図を送る。
美月も困った顔で茜を見ていた。
茜はゆっくりと二人に向き直った。
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