第五話 最後のセトリ

 二月が終わろうとしていた。

 美月の同期たちがアパートで騒いでいた夜以来、茜はもう何もする気になれなかった。一人でスタジオに入ることも、メンバー募集のSNSを更新することも、ましてや埃をかぶったギターに触れることさえも。

 美月との間に引かれたカーテンは分厚く冷たく、お互いの存在を遮断していた。

 美月は引越しの準備を着々と進め、段ボールの数は日に日に増えていく。

 茜はその物音を聞かないように、一日中イヤホンで耳を塞いでいた。


 ──もう、終わりなんだ。


 茜は求人誌を眺める。

 時給千二百円、週三日からOK。

 そんな文字がひどく現実味のない記号のように見えた。

 社会に出るか、ニートになるか。

 あんなに恐れていた二択が、もう目の前まで迫っている。

 どちらも選べない。どちらも選びたくない。

 茜はただ時間だけが過ぎていくのを、ベッドの上で無為に待っていた。


 三月に入ったある日の午後。

 ピコンと静かな部屋にスマホの通知音が響いた。

 茜が重い体を起こして画面を見るとサークルの後輩からのLINEだった。


『お疲れ様です! いよいよ卒業ライブの時期ですが、Cyanの皆さんは出演どうされますか?』


 茜は、そのメッセージを睨みつけた。

 ──今さら、何だよ。ユイさんは結婚して辞めた。美月は私を拒絶した。

 もう「Cyan」なんて、どこにもないじゃないか。

 茜はスマホをベッドに放り投げ、再び布団をかぶった。

 無視しよう。そう決めた。


 しかしその数時間後。

 アパートのドアが開き、美月が帰ってきた。

 美月は茜のスペースとの境界線であるカーテンの前で、ためらいがちに立ち止まった。


「……茜、LINE、見た? 卒業ライブの」

「…………」


 茜は布団の中で返事をしなかった。


「……私、出ようと思う」


 美月の、静かだが有無を言わせない声が響いた。

 茜は驚いて布団から顔を出した。


「……なんで。もう、辞めたんじゃなかったの」

「けじめ、だから」


 美月は、茜の目をまっすぐに見つめていた。

 その瞳は、就職活動を終えた頃から見せるようになった、茜の知らない大人の目をしていた。


「このまま、なあなあで終わるの嫌だから。茜にも、私自身にもちゃんとけじめをつけたい」


 けじめ。その言葉が、茜の胸に冷たく突き刺さる。

 ああそうか。美月にとっては、これはもう終わらせるべき過去なんだ。

 茜は、美月のその正しさと強さに何も言い返せなかった。

 ここで嫌だと駄々をこねることは、自分の惨めさをさらに露呈させるだけだ。


「……唯さんは?」

「連絡した。『最後なら』って、OKしてくれた。……やるよね、茜?」


 それは確認ではなく、決定事項の通達だった。

 茜には、もはや抵抗する気力もなかった。


「……わかった。やるよ」


 茜はそう答えるしかなかった。

 これが本当に最後なのだ。

 一人でのあがきも失敗し、美月も完全に失った。

 彼女の心は、もう何も感じなくなっていた。


◆◆◆


 卒業ライブの一週間前。

 三人はあの時以来、初めてスタジオに入った。

 唯は左手の薬指に指輪を光らせ、幸せそうに、しかしどこか退屈そうにシンバルを磨いている。

 美月はスタジオの隅で、ケースからベースを取り出していた。

 茜はそのケースを見て、息が詰まるような感覚に襲われた。

 それは高校時代から使い古してきた、ステッカーだらけの布製のソフトケースではなかった。新しく買ったのか、あるいは、茜の知らない誰かに買ってもらったのか。

 頑丈そうで高価そうな、黒いハードケース。

 茜の知らない美月の新しい世界の象徴だった。


 ──なに、それ。


 ──そんな立派なケース、いつ買ったの。


 ──私と辞めた後も、誰かとバンド続けるつもりなの?


 茜は喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 ここで彼女を引き留めるほど、茜に美月への執着は無かった。


「……で、セトリどうする? 昔の曲、もうあんまり覚えてないかも」


 美月がベースのチューニングをしながら、事務連絡のように言った。


「なんでもいいよ。美月がやりたいので。唯さんもそれでいい?」

「いいよー。難しすぎなければ、だけど」

「そっか。じゃあ無難なやつで……3曲くらいにしとく?」


 三人は目を合わせようともしなかった。

 唯がカウントを出し一曲目が始まる。

 音は驚くほどに合っていなかった。

 いや技術的には合っている。

 美月のベースも、唯のドラムも、ミスなく正確にビートを刻んでいる。

 けれどそこには何の熱量もなかった。

 三人の心が、絶望的にすれ違っている。

 茜は、歌うのをやめた。


「ごめん。もう一回」

「……はいはい」


 唯の返事が、ひどく面倒くさそうに響いた。

 茜はもう一度イントロを弾き始める。

 ああ、そうか、と。茜はこの瞬間はっきりと理解した。

 Cyanはもう、とっくの昔に死んでいたんだ。

 卒業ライブは、ただの葬式に過ぎない。

 茜は何も感じなくなった心で、ただ虚しくギターをかき鳴らした。

 美月のあの新しいベースケースの黒色だけが、やけに目に焼き付いていた。

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