第四話 空っぽのノイズ

 美月に「恥ずかしい」と拒絶されて以来、アパートの空気は凍りついていた。

 茜と美月は、同じ部屋にいながら、まるで厚いガラス越しに相手を見ているかのように、互いに触れ合おうとしなかった。

 会話は「お風呂空いたよ」「あ、うん」といった、生活音に毛が生えた程度のものだけ。

 卒業論文の提出も終わり、大学に行く理由もなくなった二月。

 茜の時間は、完全に止まった。


 対照的に、美月の時間だけは外の世界と連動して動いていた。

 茜のスペースには、弾かれることのなくなったギターと作りかけの歌詞が書かれたノートが散乱している。

 美月のスペースからは、私物が少しずつ段ボールに詰められていく。

 代わりに増えていくのは真新しいスーツケースや卒業旅行先のパンフレット、内定先から送られてきた分厚い研修資料。

 茜は、美月が荷物を詰める音を聞くたび、自分の居場所がこの部屋から少しずつ削り取られていくような感覚に襲われた。


 ──このままじゃダメだ。


 茜は焦りに駆られた。

 美月がいないなら一人でもバンドを続けなければ。

 いや、一人でも成功できることを見せつければ、美月もきっとあの日の言葉を後悔するはずだ。

 茜は震える手でパソコンを開き、SNSやバンドメンバー募集サイトに「Vo/Gt当方。Dr、Ba募集」と書き込んだ。「本気でプロ目指せる方のみ」と加える。

 しかし、いくら待ってもメッセージは一件も来なかった。


 茜は諦めきれなかった。

 一人でスタジオに入り、新曲を作ろうと試みた。

 だが美月のうねるようなベースラインがない茜の曲は、ひどく薄っぺらく未完成に響くだけだった。

 あの頃は、美月がいてくれるのが当たり前だった。

 焦った茜は大学一年の時に録ったCyanのデモCDを持って、いくつかのライブハウスに売り込みに行った。


「……うーん、悪くないけど、暗いね」


 下北沢の薄暗い事務所。

 ブッキングマネージャーらしき男は、面倒くさそうに耳からイヤホンを外した。


「今どきこういう音はウケないよ。結局こういうのって自分たちの世界観の中でしか響かない。その世界観に入り込めないとこの歌詞みたいなのは『傷心した自分に酔ってる』とか『リスカソング』とかって揶揄されちゃうよ」

「そう、ですか」

「もっとさ、こう分かりやすい言葉で、みんなが元気になれるようなやつ。ほら『Wonder Days』みたいにさ。売れたいならね」

「…………」

「『君は一人じゃない』とか、そういうの。簡単そうだけど、難しいんだよそういう曲もね。筋は悪くないからさ、こっち系に挑戦してもいいんじゃない?」


 茜は差し出されたデモCDを受け取り、逃げるようにライブハウスを飛び出した。

 冷たい風が頬を叩く。また、あいつらだ。どこまで行っても、「Wonder Days」の偽善が正解として立ちはだかる。プライドはもう、ズタズタだった。


◆◆◆


 その夜、アパートに帰ると部屋からは楽しそうな笑い声が漏れていた。

 美月の声だ。それと、知らない男女の声がいくつか。

 茜がドアを開けると美月のスペースに、見慣れないスーツ姿の男女が三人、缶ビール片手に座り込んでいた。


「あ、茜おかえりー。ごめん、ちょっとうるさかった?」


 美月が少し酔った顔で振り向いた。


「……ううん」

「紹介するね、内定先の同期の、えーっと……」


 美月は楽しそうに笑い、同期たちは「どうもー」と軽く会釈するだけ。

 彼らの視線は、茜の古着のパーカーと、ボロボロのギターケースを値踏みするように一瞥しすぐに美月との会話に戻っていった。


「でさ卒業旅行、やっぱ沖縄行かない?」

「いいねー! 美月さん、運転できんの?」

「任せてよー! 免許とってから三年間乗ってないけど!」

「それだめじゃん! はい他に運転できるよってひとー」


 茜はその楽しそうな輪に入ることができなかった。

 彼らが話しているのは茜の知らない社会の言葉だった。

 茜はカーテンを境界線代わりにして自分のスペースに逃げ込んだ。

 布団をかぶりイヤホンで耳を塞ぐ。

 壁一枚隔てた向こう側から、美月の楽しそうな笑い声と同期たちの騒がしい声がノイズのように染み込んでくる。

 それは茜が何よりも嫌悪していた現実という名の騒音そのものだった。


 ──私はここにいるのに。美月の一番近くにいるのに。


 美月はもう、茜を見ていない。

 茜は、自分が美月にとって過去の存在になりつつあることを、痛いほど理解していた。

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