第三話 決別

 十二月が終わり年が明けた、大学四年の一月。キャンパスは卒業論文の提出を終えた学生たちの、解放感とも諦念ともつかない奇妙な熱気に包まれていた。

 あの日、唯さんがバンドを辞めてから茜と美月の会話はほとんどなくなっている。


 アパートに響くのは、美月が慌ただしく出かける支度をする音と、キーボードを叩く音だけ。美月は内定者研修や卒業旅行の計画に忙しく、夜遅くに帰ってきては疲れ切った顔でベッドに倒れ込む。

 茜は一人、美月のスペースに積み上がっていく旅行雑誌や、真新しいビジネスバッグを横目で見ながら、冷え切った冷凍のパスタを啜る日々が続いていた。


 ──美月はもう、あっち側に行ってしまった。


 茜一人だけが、このモラトリアムに取り残されていく。


 新曲はもう一小節も作れなかった。

 ギターを握っても指が動かない。

 あんなに憎んでいた「Wonder Days」の安易な応援歌が、今ではもうどうでもいいBGMのように街に流れている。嫉妬する気力さえ、失いかけていた。

 このままじゃダメだ。美月が本当にいなくなってしまう。

 茜は焦燥感に駆られ、クローゼットの奥から埃をかぶった段ボール箱を引きずり出した。その中から、高校時代に使っていた古い譜面ファイルを取り出す。


◆◆◆


 その夜、珍しく美月が早い時間に帰ってきた。研修が休みになったらしい。

 二人は冷え切った部屋のこたつで、無言でテレビのバラエティ番組を眺めていた。かといって和気あいあいな雰囲気は無く、気まずい沈黙が続く。


「……あのさ、美月」


 先に口を開いたのは茜だった。

 美月はリモコンをいじったまま「ほい」と気のない返事をする。

 茜は震える手で、あの古い譜面ファイルを美月の前に差し出した。


「これ、覚えてる?」


 表紙にはマジックでCyanと拙い字で書かれている。

 美月は一瞬、驚いたように目を見開き、そして懐かしそうにそれを手に取った。


「なつかし、シアン・ブルー。高校の時、こればっかり練習してたよね」

「うん。この曲は……その、私たちの始まりだから」


 茜は希望の光が差したように身を乗り出した。

 そうだ。美月は忘れていなかったんだ。


「ねえ美月。サークルの卒業ライブ、あるじゃん? 三月の。……最後にもう一度、Cyanで出ない? 唯さんも、最後ならって言ってくれるかもしれないし……。それでこの曲、やらない?」


 それが茜にとっての最後の望みだった。

 この曲さえやれば、あの頃の気持ちを思い出せる。

 美月もきっと社会なんかより、バンドの方が大事だって思い出してくれるはずだ。


 しかし、美月は譜面をめくったまますぐに顔を上げた。

 その表情は、茜が期待していたものではなかった。

 懐かしさではなく、困惑とほんの少しの侮蔑が浮かんでいるように見えた。


「……ごめん、茜。私もう……この曲は弾けない」

「え……? 覚えてないならまた練習すれば──」

「そうじゃなくて!」


 美月が、初めて強い声で茜の言葉を遮った。

 彼女は譜面の一節を指差す。


「『私たちは錆びない鉄の翼』『大人になんてならない』」

「これが?」

「茜、本気で言ってるの?」

「え、うん。だって、私たちが誓ったことじゃん!」

「あれは高校生の時だったから言えたんだよ! 今はもう、無理だよ……」


 美月は、顔を覆うようにして深くため息をついた。


「恥ずかしいよ、こんなの。今さら歌えないよ、私は」


 ──恥ずかしい。


 その一言が茜の心臓を貫いた。

 人生で一番大切にしてきたもの。

 美月と二人で作り上げた、自分たちの原点。

 それを美月は「恥ずかしい」と一蹴した。

 茜は真っ白になった頭で、かろうじて言葉を絞り出した。


「……ひどいよ、美月。なんで、そんなこと」

「ひどいのは、どっちよ!」


 美月も立ち上がった。

 その瞳には、諦めと怒りが浮かんでいた。


「私もう決めたんだ。卒業したら、この部屋、出ていくね」

「……え? なんで。やだ。やだよ。美月、やだ」

「私もう、茜とは暮らせない。あんたといると、息が詰まる」


 それは茜にとって、死の宣告と同じだった。


「……なんで。私と一緒じゃ嫌なの? 私が、何かしたから……」

「違う! そうじゃない! 私は、茜が心配なの!」


 美月は泣きそうな顔で叫んだ。


「いつまでも夢ばっかり見て、現実見ないで! 就活もしないで、どうするつもりなの!? 私が、あんたの才能を一番信じてた! 誰よりも! でも、それとこれとは別だよ! 才能だけじゃ、食べていけない!」


 美月の正論が、ナイフのように茜に突き刺さる。


「……才能なんて、どうでもいい」

「え……」

「私は、美月と……今のままがよかっただけなのに……っ」


 涙が溢れて譜面の上に落ちた。

 シアン・ブルーのインクが、滲んで歪んでいく。

 茜にとってバンドは美月といるための居場所であり、美月にとっては思い出と可能性でしかなかった。二人の見ている世界の決定的なズレが目の前に横たわっていた。


「……ごめん」


 美月はそれだけ言うと、コートを掴み、アパートを飛び出していった。

 一人残された茜は、滲んだ譜面を抱きしめたままその場に崩れ落ちた。

 冬の夜の冷気が、ドアの隙間から容赦なく吹き込んできた。

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