第二話 それぞれの足音
学園祭が終わるとキャンパスの空気は一変した。
あれほど騒がしかった雑踏は消え、冷たい木枯らしが吹き抜けるようになる。
学生たちの関心はすでに卒業論文と、来たるべき社会人生活へと移行していた。
茜だけが、大学生活の真ん中に一人ぽつんと取り残されていた。
いまだに就職活動は始めていない。大学のキャリアセンターから届くメールは、開かずに削除している。そんな茜にとって唯一の現実がバンドCyanだった。
十一月に入り、アパートでの二人の生活リズムは決定的にズレ始めていた。
茜が深夜、新曲のコード進行に悩み、虚しくテレキャスターをかき鳴らしていると、美月が内定者研修や懇親会から疲れた顔で帰ってくる。
「ただいま……。あ、起きてる」
「……おかえり。遅かったね」
「うん、なんか同期との打ち上げで……。ごめん、明日早いからもう寝るね」
美月はそう言うと、茜が作りかけの曲を聴こうともせずシャワーを浴びてベッドに潜り込んでしまう。
茜は、美月の背中にかける言葉を見つけられなかった。
──私の曲、聴いてほしい。
その一言が、どうしても言えなかった。
美月が社会の匂いを纏って帰ってくるたび、茜は自分だけが幼稚な夢に取り残されていくような焦りに駆られていた。
バンド練習の日程もなかなか合わなくなっていた。
三人のLINEグループには茜の「次の練習、いつにする?」という呼びかけに対し、数時間後にようやく返信がつく。
『ごめん! その日、彼氏の実家に行くことになっちゃって……別の日でもいい?』
『私も、その日は内定先の課題提出があるから厳しいかも。』
茜は、スマホの画面を睨みつけながら唇を噛んだ。
──彼氏の実家? 内定先の課題?
それはバンドよりも大事なものなの?
どうして、二人は真剣になってくれないんだろう。
茜の苛立ちは、誰にもぶつけられないまま心の奥底に澱のように溜まっていった。
◆◆◆
十二月。冬の寒さが本格的になってきた土曜の夜。
実に一ヶ月ぶりとなったスタジオ練習。
三人は、どこかぎこちない空気の中で機材のセッティングをしていた。
「……じゃあ、とりあえず。こないだ作った新曲、聴いてもらっていい?」
茜は重い空気を振り払うように、必死に明るい声を作った。
スマホからデモ音源を流す。
学園祭の後、一人で作り上げた焦燥感と怒りを詰め込んだロックナンバー。
茜としては少なくとも悪くない出来になったと思っていた。
なのに──。
「──────」
──曲が終わっても、美月も唯も、しばらく何も言わなかった。
スタジオの壁に染み付いたタバコの匂いだけが、やけに鼻についた。
「……どうかな?」
茜の問いかけに、最初に口を開いたのは美月だった。
「……うーん。なんか、ちょっとうるさくない?」
「え?」
「いや、悪いとかじゃなくて……。なんかずっと叫んでるみたいで、聴いてて疲れちゃう、かも。私たちってこういうシャウト系バンドでは無いでしょ? 最近なんというか方向性が定まってないというか……」
美月の言葉に、茜はカッと頭に血が上るのを感じた。
──疲れる? 私の音楽が?
「……唯さんは?」
怒りを抑え、ドラムセットの後ろにいる唯に視線を向ける。
唯はスティックを握りしめたまま、力なく笑った。
「ごめん、茜。私、こういう速い8ビート、体力的に叩けないかも……」
「…………」
茜は頭を殴られたような衝撃を受けた。
うるさい? 叩けない?
二人が、自分の音楽を正面から否定している。
「……どうしたの二人とも! なんか前と変わった? 私なんかした? やる気ないじゃん。前みたいな二人に戻ってよ! 私の作った音楽、少しくらい褒めてよ!」
二人は無言を貫く。
「このままこんな調子だとさ、私たち解散──」
解散する、と。言いかけてやめた。
その言葉一度でも口にしたら、もう戻れない気がしたから。
しかし、茜の必死にかけたブレーキは、次に唯が口にした言葉で無意味だったと知らされる。
「……うん。解散、ね。悪くないかも」
「…………え?」
「ごめん茜、美月。……私、言わないといけないことがある」
唯は、スティックをそっとスネアドラムの上に置いた。
その目には演奏の時には無い、固い意志のようなものが宿っているように見えた。
「前から話してたんだけど……彼氏の実家の方に、卒業したら引っ越すことになって。で、その……結婚、するんだ。正式に決まったの」
「…………」
「だから、もう、ドラムも叩けなくなると思う。ごめん」
茜は何も言い返せなかった。
本来であれば、ここで祝福の言葉の一つでも綴らなければならない。
なのに、言葉は喉奥に引っかかっている。しかもそれは祝福の言葉ではない。
吐き出してしまえば唯を傷付けるような、そんな言葉である。
「…………」
目の前でCyanという自分たちの居場所が、あっけなく崩れていく。
美月は「そっか。おめでと、唯さん」と冷静に、どこか他人事のように言った。
◆◆◆
その日の練習はお通夜のようだった。
誰も新曲の話はせず、古い曲を義務のように合わせただけですぐに終わった。
スタジオからの帰り道。冬の夜空気が、マフラーの隙間から入り込んで肌を刺す。唯は「彼氏が待ってるから」と、先に駅の改札をくぐっていった。
残されたのは茜と美月、二人のみ。
「……びっくりしたね」
先に沈黙を破ったのは美月だった。
「……うん」
「でも唯さんらしいと言えばらしいけど。ま、幸せそうでよかったよかった」
美月の言葉には、何の感情もこもっていないように聞こえた。
まるで自分には関係のないことだと言うように。
そんな美月を見て、茜はどうしようもない不安に駆られる。
「ねぇ」
茜は、たまらなくなって美月の袖を掴んだ。
「美月は……美月は、辞めないよね? 本当は辞めたいって、思ってないよね?」
その声は、震えていた。
「唯さんが辞めても、サポートドラマー探せばいい。二人でも、続けられるよね? ドラマーが見つからなくてもそこは音源でまかなってさ。美月と二人なら私……」
──大丈夫だよね?
必死に同意を求める茜の目から、美月はふいと視線を逸らした。
その一瞬の躊躇を、茜は見逃さなかった。
「……そうだね。まあ、考えとく」
美月はそう言って曖昧に笑った。
それは、茜が一番聞きたくなかった答えだった。
茜は、美月の心がもうここにはないのだということをはっきりと理解してしまう。
美月はもう自分と同じ場所には立っていない。
彼女はもう、内定先という社会と、卒業という現実の方だけを見ている。
「……そっか」
茜は、掴んでいた美月の袖をゆっくりと離した。
指先に残った体温が、冬の夜気にあっという間に奪われていく。
アパートまでの帰り道、二人はもう一言も口をきかなかった。
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