第4話 初めての「ありがとう」
湖のそばにひっそりと建つ、小さな小屋。
軒先にたどり着いた頃には大粒の雨も小雨に変わり、鉛色の雲間から柔らかな陽が差し込みはじめた。
穏やかに波打つ湖面に光が反射して煌めく様は、まるで一枚の絵画のよう。
間違いなく、ここはディセルネの作り出した世界。
【彼女そのもの】
美しさだけなら、他の神々が作り出した世界と比べるまでもない。
そう、美しさだけなら……。
「大丈夫?寒くないかな?」
ディセルネを雨から守るように、抱きかかえていたシェリールは、そっと彼女を地面に降ろした。
彼は少しだけぬかるんだ地面に膝をつくと、雨で張り付いたディセルネの髪の毛を整え始める。
「其方が、妾を濡れないように覆ってくれていたからな。
全然大丈夫じゃ」
腰に手を当て、ふんぞり返るディセルネ。
『おいおい、ディセルネさんよ!そこは、“ありがとう”だろ。この兄ちゃん、自分はずぶ濡れであんたを守ったんだぞ』
沢山の水滴を飛ばすようにブルブルと体を振るわせて、水気も、念話も飛ばすヤーナ。
『はて?なぜ妾が、礼など言わねばならんのじゃ?妾は神様じゃ、それに妾は美しい。上にいた頃も皆、妾に尽くしておったろ?』
首を傾げてヤーナを見やるディセルネ。
全く意図が通じていない彼女の足元に擦り寄って、濡れた体を擦り付け始めた小さな神獣。
「うわぁ、冷たいぞ。ヤーナ、やめておくれ」
『ほら、嫌なことは、ちゃんとわかるくせに。だったら、人から貰った親切だって、“嬉しいこと”で、“ありがたいこと”って気がつくべきなんだよ!』
『わかった!わかったから、ちと離れてくれぬか?』
『いや、何にもわかっちゃ、いないね。じゃ、何がわかったのさ?』
『その……、抱えて運んでくれた……とこ……?』
『うぅん……、間違いじゃないんだけど、正解でもない……。なんて言ったら伝わるんだよ……』
無言で見つめ合う一人と一匹を、微笑ましそうに見守るシェリール。
彼はスッと手を伸ばしてヤーナを抱えると、自身のマントでワシャワシャと拭き始めた。
「ほら、ワンちゃん、お嬢ちゃんの足が濡れるだろ?
こっちにおいで。あぁ、君も濡れて寒かったんだね」
『いや、俺は寒くないぞ!違う、離してくれ』
「クォーン」とただ鳴き声が響くだけで、ヤーナの気持ちはシェリールには伝わらない。
「ほら、綺麗になったよ」
そう言ってヤーナを地面に下ろすと、彼の頭を優しく撫でた。
『おぉ、本当だ。俺のモコモコの毛が乾いてる。兄ちゃん、ありがとな!』
ヤーナはシェリールの手のひらに鼻を寄せて、ペロッとその手を舐めた。
ヤーナの声が聞こえるディセルネは、二人の様子をただじっと見入っている。
先程のヤーナの言葉の意味が、わかりそうでわからない。
――――“ありがとう”とな……、ヤーナは青年に感謝しておるのか……。
「ほら、お嬢ちゃんの足も濡れてるね。拭くから、こっちにおいで」
手招きするシェリールに、何も答えないディセルネ。ただじっと、ヤーナとシェリールの足元を見つめ続けるだけ。
ちょっとだけ腰を上げて移動してきたシェリールは、彼のマントの端でディセルネの足を拭った。
――――冷たく……なくなった。
あぁ、でも青年のマントは汚れてしまった……。
其方は濡れたままじゃ……、
それにマントは汚れて……、
妾の転んで汚れた足を拭かなければ、其方のマントは汚れなかった……。
妾を抱えて運ばなければ、其方はこんなにも……ずぶ濡れにはならなかった……。
其方には、何の得もないのに……、
そうか、妾が神だと知って……、
いいや……知るわけなかろう。
今の妾は、神だった頃の妾じゃない。
じゃが、なぜ其方は妾を助けてくれる?
其方には何の得もないのに……。
ふと頭の中にヤーナの言葉が降りてきた――――
『ほら、嫌なことは、ちゃんとわかるくせに。だったら、人から貰った親切だって、“嬉しいこと”だし“ありがたいこと”って気がつくべきなんだよ!』
――――あぁ、そうじゃ。妾は確かに今“嬉しい”ぞよ。
雨に濡れた足も乾いたし、そもそもそんなに濡れておらぬ。
この青年が、雨から守ってくれたからのぅ。
これが、ヤーナが言った“親切”なのか……。
「あっ、ありがとう……、青年よ」
「どういたしまして」
シェリールは優しく目を細めると、まるで幼児に“大変よくできました”と言うかのように、ディセルネの頭をそっと撫でた。
――――なんじゃ、このへんがポカポカするぞよ。
首を傾げて、鳩尾の辺りに手を置いたディセルネ。
『どうかしたのか?』
『このへんがのぅ、ポカポカする気がするのじゃよ』
『そっか』
*****
そしてここは天界。
「「「おぉ、ディセルネが初めて、お礼を……」」」
水鏡を覗き込むデウス、アース、セレナの声は綺麗に重なったのであった。
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