第1話: 依頼と足跡 ― The Call
雨は、街を忘れさせるほどに降り続いていた。
都市のネオンは水滴に歪み、舗道に滲んだ光は血と油を混ぜたような色をしている。
その片隅に――古びた木の扉と、錆びた金属看板。
〈ECHO-LINE〉と書かれたその場所は、探偵事務所であり、義体修理工房であり時に“何でも屋”でもある。
ドリップコーヒーの香りが漂う中、男は静かにマグカップを持ち上げた。
男の名はキド。
どんな相手に対しても常に敬語を崩さない、都市でも少し変わり者の探偵だ。その穏やかな物腰と丁寧すぎる言葉は、しばしば人々に「胡散臭い」と言われる。
「……またコーヒーですか。今日は何杯目ですか?」
無表情のままそう尋ねたのは、灰銀色の髪をもつ少女――レナ。
彼女の声は常に平坦で、感情の起伏が少ない。
だがその瞳には、電脳世界を覗く光が宿っている。
「三杯目です…貴方の淹れるコーヒーの苦味が落ち着くもので」
「それ、毎回言ってる」
「毎回同じ感想を抱くものでして」
レナが小さくため息をつく。その瞬間、
テーブルのホロ端末が淡く点滅した。
――十年以上前に閉鎖された旧式の暗号回線だ。
「……珍しい通信ね。封書式暗号。こんなの、もう誰も使わない。」
「古い相手、ということでしょう。」
キドがマグを置き、静かに指で通信を開く。
映し出されたのは、初老の男。燕尾服、白髪、そして深く刻まれた皺。
『お久しゅうございます、キド様。ウェストン家に仕えるグレイヴスと申します。』
「……グレイヴスさん。まさか、あなたから連絡をいただくとは。」
『恐れながら、切羽詰まった事情がございます。
我が主のご息女――アリアお嬢様が、三日前より行方不明でして。』
その言葉に、室内の空気が少し冷たくなる。
『市警および我々の警備部隊が動いておりますが、手がかりがなく……。
わたくしの判断で、古い伝手を辿り、あなたにお願いすることにいたしました。』
キドは軽く目を伏せ、静かに頷いた。
「……承知いたしました。お話を直接伺えますか?」
『ええ。今夜、屋敷にてお待ちしております。』
⸻
■ウェストン邸 ― 南区第七居住層
レナが運転する小型のEV車が霧雨の街を抜ける。
巨大なゲートの前には、警備ドローンが整列していた。
鋼の門が音もなく開き、二人を迎え入れる。
正門に立つ警備員が車体の下や車全体、キドもレナを簡易チェックしていく
そのチェックを無事に通り抜けると広大な庭園。夜でも自動照明が咲き乱れる人工花壇。人の手が行き届きすぎて、どこか不気味なほどに整っていた。
「これが“上層”の屋敷……。金の使い方を間違ってるわね。」
「お金には心を守る力もあります。……守れないこともありますが。」
「なら何のために整えるのかしら」
「色々な理由があるんですよ」
庭園の奥にある玄関まで車を進めて降りる。チャイムなどは無いのでドアを開け中に入った。
玄関ホールで二人を迎えたのは、映像の男性――グレイヴスだった。
実際に見ると、さらに痩せている。だが背筋はまっすぐだ。
「お忙しい中、感謝いたします。積もるお話もございますが…こちらへどうぞ。」
案内された応接間には、アリアの写真がいくつも並んでいた。
長い金髪に柔らかな笑みを浮かべる少女――年齢は十歳ほど。
壁際のホロスクリーンには、市警の捜索報告。
だがそれはどれも“進展なし”の赤文字で塗り潰されていた。
「アリアお嬢様は、三日前の夕刻、学園からの帰り道で消息を絶ちました。当日あったはずの車の迎えもありません。護衛もなぜかその事を知らされておりませんでした。」
「そちらの契約している警備会社の命令に改竄が?」
「そのようです」
「治安局の初動は?」
「早かったのですが……。どうも“外部圧力”があったようで。」
「外部圧力?」
「“もう少し静観しろ”と。どこからともなく、そう指示があったと聞いております。」
レナが低く言う。
「つまり…警察に対して圧力をかけられる何者かが暗躍していると?」
グレイヴスは重く頷いた。
「はい…わたくしは三十年この家に仕えておりますが……あの子は本当に純粋で、機械や数式を好む子でした。ですが――」
彼は一瞬、口ごもった。
キドはそれを逃さない。
「……ですが?」
「失礼ながら……。お嬢様は時折、何かを“見て”おられたのです。」
「見て?」
「壁の向こうの“光”や、“声”。
まるで、この世界の奥にある何かを覗いているように。」
レナの目が細く光る。
「……神経同期の異常反応、あるいはハッキング適性。子供でそのレベルなら、企業が喉から手を出す程に欲しがる」
「…では企業が?」
「ええ。特に神経拡張やAI分野を扱うところ。……たとえばリベリオン・メディカル。」
その名を聞いた瞬間、グレイヴスの顔が一瞬、硬直した。
だがすぐに微笑みを取り戻す。
「……そういうことも、あるかもしれませんね。」
キドは彼の反応を静かに観察した。
丁寧な言葉の裏に、明らかな“恐れ”がある。
「最後に。お嬢様の個人端末や、残された通信履歴を見せていただけますか?」
「ええ、こちらに。」
机上に置かれたのは、小型のホロデバイス。
レナが端末を手に取り、スキャンを開始する。
瞬間――彼女の顔が曇る
「……妙ね。中身が“偽装”されてる。」
「偽装?」
「表面上は普通の学習記録。でも、深層にもう一つログがある。発信元は……市警の暗号回線。痕跡は…“治安庁”。」
「治安庁が、なぜ子供の端末に?」
「……分からない」
グレイヴスが少し蒼ざめる。
「わたくしは……知らされておりませんでした。」
キドは穏やかに頭を下げた。
「ご協力感謝いたします。お嬢様を必ず見つけます。」
老執事は深く礼を返した。
「どうか、お願いいたします。あの子は……この家に残された唯一の“心”なのです」
⸻
■帰路 ― 夜の街、冷たい雨の中で
車のの中、雨が窓を打つ音だけが響く。
レナは運転しながら眉を顰めた
「……グレイヴス、本当に苦しんでた」
「ええ、この街では珍しい“善い人”ですよ、彼は」
「なんで知ってるの?…そういえば初対面でも無さそうだった」
「昔色々と世話になりまして…あの時の借りを返せるとは思いませんが、全力で事にあたらせていただこうと思います」
レナはちらりとキドを見た。
「……あなたは、なんでそんなに他人に優しいの。」
「優しさではありません、ああいう人をよく知っていまして」
「知り合い?」
「昔、守れなかった人がいましてね。」
「……またそうやって、過去形でごまかす」
「ええ、過去形の方が痛みが少ないので」
沈黙。
その中で、仕事仲間であるユリシーズの声が車内に響いた。
《微弱な信号を検出。アリア・ウェストンの生体識別コードと一致します。》
「場所は?」
《旧地下鉄B-9線。現在は封鎖区域に指定されています。》
「……地下、ね。」
レナが端末を閉じる
「嫌な予感しかしない」
「予感は、大抵当たりますから」
「皮肉?」
「いえ、経験則です」
キドはウィンドウ越しに、雨の街を見つめた。
ネオンの光が滲み、雨が血のように地面を染める。
彼の瞳に一瞬、悲しげな光が宿った。
「行きましょう、レナさん。――どのような形であれ連れ帰りますよ」
車体が静かに加速し、夜の闇の中へ消えていく。
都市の光が彼らの背を照らし、雨がその影をゆっくりと飲み込んだ。
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