努力では越えられない「雇用の非対称性」

スケールアイシステム公式記録

就活が上手い人だけが“報われる”社会の矛盾

■ 「就活が上手い人=正社員」になる不思議な現実


派遣問題を考えると、つくづく理不尽だと思うことがある。

仕事ができなくても、就活が上手ければ正社員になれる。

逆に、現場で誰よりも頼られている人が、派遣社員のまま終わることもある。


この構図を見ていると、「努力すれば報われる」という言葉がどれほど空虚かが分かる。

努力の“方向”がずれていれば、どれだけ頑張っても報われないのだ。



■ 「就活」というゲームの正体


日本の採用は、仕事の実力よりも**“入口での印象操作”**が重視される。

面接、自己PR、グループディスカッション──いずれも“対人ゲーム”に強い人が圧倒的に有利だ。

就活とは、言い換えれば「自分を売るスキル」を競う儀式。


その結果、

• コミュニケーション能力に優れた人が正社員に

• 実務能力が高い人が派遣として働く

という“逆転現象”が生まれる。



■ 「不得手を克服せよ」という呪い


人には得手不得手がある。

たとえば、面接がどうしても苦手な人もいる。

緊張で言葉が詰まったり、思っていることをうまく伝えられなかったりする。

それでも実際の仕事では、丁寧で責任感が強く、周囲から信頼されている──そんな人も少なくない。


それは自然なことのはずなのに、日本社会では「不得手を克服せよ」「努力で補え」という暗黙の了解が支配している。


でも、考えてみればおかしい。

苦手なことにエネルギーを注ぎ続けるより、得意なことを伸ばした方が、社会的にも合理的なはずだ。

それでも「不得手を克服することが美徳」とされるのは、

戦後日本が“均質な人材”を大量に求めた教育と雇用の仕組みを引きずっているからだ。


つまり、個性ではなく「平均」を評価する文化が、今も根強く残っている。



■ 努力の報酬が「構造」によって奪われる社会


派遣社員の多くは、実際には現場を支えている。

だが、正社員登用の道は狭く、能力より「採用のタイミング」や「コスト枠」に左右される。

努力しても報われないのは、個人のせいではない。

それは、構造的に報われない仕組みが存在するからだ。


それを無視して「努力しろ」と言うのは、あまりに短絡的だ。

本当に問うべきは、「なぜ努力が報われにくい社会になっているのか」だろう。



■ 本当の努力とは、構造を見抜くこと


誰もが同じスタートラインに立てるわけではない。

だからこそ、個人の“頑張り”を美談にせず、

「努力しても報われない構造」を言葉にすることが、本当の努力だと思う。


社会が変わらなければ、どれだけ優秀な人も“派遣どまり”にされてしまう。

それは本人のせいではなく、時代の仕組みの歪みなのだ。

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