第7話

第4章 焔の中の獅子(前半)


春の風は、去年よりも冷たく感じた。

それでも、曙市の空はどこか澄んでいた。

中原勇太の胸の中で、何かが静かに燃えていた。


――あの冬から一年。

池野が倒れ、死んでから、季節は四度巡った。


彼は生まれ変わったわけではない。

ただ、以前の“何か”が壊れたまま、別の歯車が動き出しただけだった。


土俵に立つと、世界の音が消える。

匂いは戻った。

それは、確かに戻っていた。

湿った砂の甘い匂い。

皮膚に張り付く塩の香り。

血の味と混ざり合う、あの土の声。


「お前、変わったな」

練習のあと、山村が言った。

「目が違う。もう勝ち負けじゃない目をしてる。」


勇太は答えなかった。

ただ、タオルで首を拭き、静かに土俵を見つめていた。


去年までは、立ち合いの瞬間に迷いがあった。

今はない。

体が考えるより先に動く。

足が、腰が、意志のように地面を掴む。

「勝つ」と言葉にしなくても、勝利が呼吸の延長線上にある。


春の地方大会、勇太は全勝優勝を果たした。

相手は誰であれ、触れた瞬間に体勢が崩れた。

試合の後、審判たちは口を揃えて言った。

「まるで人間じゃない。」



五月の大会。

二回戦、相手は国士館の主将・高峰。

全国選抜準優勝の男。

立ち合いの一瞬、空気が切れた。


ゴンッ――。


衝突音が、体育館の天井を震わせた。

次の瞬間、高峰の体が宙を舞った。

観客の息が止まる。

押し出し。

わずか二秒。


審判の手が上がるより早く、勇太はすでに土俵を降りていた。

「中原、止まれ!」

山村の怒号。

だが、彼は振り返らなかった。

勝利は通過点。歓声は、ただの風。


その夜、寮の部屋でノートを開く。

池野の手拭いがページの間に挟まっている。

《匂いは、帰ってくる。迎えに行け》

指先で文字をなぞる。


「迎えたよ、先生。」

小さく呟いた声が、夜気に溶けた。



夏。

中原の名は、すでに全国で知られるようになっていた。

試合前の観客席で、誰かが囁く。

「あいつが中原か。」

「池野の弟子だろ。」

「いや、もうあの域じゃない。」


だが、彼自身にはそんな実感はなかった。

むしろ、心の奥の空洞が広がっていた。

勝つたびに、静けさが増していく。

まるで“世界が後退していく”ようだった。


ある日の夜、山村が言った。

「お前、勝っても楽しそうじゃないな。」

「……楽しむものじゃないです。」

「違う。勝つことを楽しめとは言っていない。

 “生きてる”感じが、しない。」


勇太は口を閉ざした。

監督の言葉が、胸に刺さったまま抜けなかった。



七月の終わり。

大学リーグ戦。

相手は、市川の所属する鳴海大学。

二人は一年ぶりに顔を合わせた。


控室の空気が重く張り詰める。

汗の匂いと緊張の鉄臭さ。

市川は髪を短くし、顔に精悍な影を宿していた。

「久しぶりだな。」

「……ああ。」

言葉はそれだけ。

互いの瞳の奥で、別の言語がぶつかっていた。


「立ち合いは避けるなよ。」

「避けるのは、お前の方だ。」


それだけで十分だった。


試合は午後三時。

会場は満席。

大学相撲のリーグ戦で、二人の取組が主役になるのは異例だった。


行司の声が響く。

「はっけよい――のこった!」


瞬間、世界が弾けた。


砂が舞い、観客が息を呑む。

体と体がぶつかるたび、空気が震える。

押し、引き、回し合い。

互いの呼吸が、同じリズムで削れていく。


「っ……中原!」

市川の声が、歯の間から漏れた。

「止まるな!」

「止まる気はねぇ!」


押し出し。

体が倒れ、二人同時に土俵の外へ。

判定――物言い。


審判団が集まり、ざわめきが広がる。

二分後、軍配が上がった。


「……勝者、中原!」


会場が爆発した。

歓声の渦。

だが、勇太の胸に広がったのは静寂だった。


市川が立ち上がり、笑った。

「やっぱり、お前は化け物だな。」

「お前もだ。」

二人の間に、汗と土の匂いだけが残った。


だが、握手はなかった。

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