第8話
第4章 焔の中の獅子(後半)
秋、きしむ歯車
リーグ戦ののち、空気はわずかに乾いた。
だが、勇太の胸の中では、何かがきしんでいた。
勝てば勝つほど、周りの声は大きくなる。称賛も、期待も、警戒も。
鳴海大学の控室の前で、記者が市川に問いかけているのを、廊下の陰で聞いた。
「中原の強さを、どう見ますか」
間を置いて、市川は短く答えた。
「……脆い強さだ」
それは、表の顔。
だが、裏の顔を勇太は知っている。
(あいつは本気でぶつかってきた。――だから、俺も生きられた)
言葉に出せない事実が、互いの胸に横たわっていた。
それでも、火は別々の方向を向いて燃える。
秋風が、乾いた砂をわずかに巻き上げる。
きしむ音は、まだ耳鳴りの範囲だった。
⸻
十月、東日本学生選手権。
中原のブロックは「死の山」と呼ばれた。
初戦の相手は昨年王者・柊木。肩で押す、危険な重心の男。
立ち合いの瞬間、柊木の額が勇太の鼻梁をかすめた。
鈍い衝撃、視界が白くはじける。
(来る――正面からは来ない)
半歩、外。肘で弾き、首を切り、左差し。
呼吸のリズムを相手の胸板で測る。
三拍、二拍、ひと拍――合わせる。
寄り、寄り、最後は土俵際で足首をかけ、外に落とした。
勝ち名乗りの立ち姿で、鼻先から血が落ちるのを感じた。
香りは、鉄ではない。
――土と混じった、さっきまでの相手の呼吸の匂い。
匂いがある。
ここにいる。
二回戦、準々決勝、準決勝。
どの相手も、立ち合いの瞬間に崩れた。
崩さなかった相手だけが、最後の最後にわずかな「隙」を見せた。
人間は、負ける寸前に、必ずわずかな祈りの姿勢をとる。
その祈りを――踏み潰した。
(すまない)
心のどこかで呟き、土俵を降りる。
そのたびに、池野の手拭いを握った。
迎えに行った匂いは、今、掌の中で薄く生きていた。
決勝は、鳴海大学。――市川。
湧き上がるどよめきの底で、二人は目を合わせる。
「さっきの『脆い強さ』、取り消す気はないのか」
「言葉は刃だ。出したら戻らない」
「上等」
行司の扇が上がる。
「構え――」
砂が静まる。
「はっけよい――」
のこった。
立ち合いの一撃は、互いの過去を破った。
肩、胸、掌、肘――全てが重なった刹那、二人ともに後ろへ半歩。
まるで世界が呼吸を取り直す一拍。
そこで市川が回した。
右上手、つかむなり、土俵中央に戻す。
(戻す? 逃がさない気だ)
勇太は腰を殺し、肩で相手の肘を食い込ませ、上体の角度を一度だけ偽る。
市川の指が締まる。――締まった瞬間に、切る。
指の皮が剝がれるような感触。
(痛い、でも――)
痛みは線になり、線は方向になる。
方向が生まれれば、体はついてくる。
押し返す。
市川、下がらない。
「止まるな!」
「――止まらねえ!」
土俵際、二人の足が同時に土を噛んだ。
砂が跳ね、観客席が沸騰する。
勇太は一瞬、空を見た。
天井のライトが熱い。
(先生、見てますか)
胸のどこかで言い、頭のどこかで笑った。
そんな暇はない。
袖を切る、市川の肩がほんのわずかに上がる。
そこだ。
膝で相手の膝を止め、腰の芯で押し、肩の角度を一度だけ“無にする”。
体が、落ちた。
市川の足が一線を越える。
――押し出し。
軍配、中原。
物言い。
審判団が集まり、映像が回る。
緊張は、刃に指を滑らせながら待つ時間に似ていた。
二分、三分。
会場の熱が、逆に冷える。
(戻れば、また取れる――)
ふいに、そう思えた。
勝ち負けの外側に、もう一本の線が走っている。
審判長の声。
「軍配どおり――勝者、中原!」
歓声の渦。
勇太は、市川を見た。
市川は――頷いた。
握手は、ここでもなかった。
けれど、目だけが、一度だけ、笑った。
罅(ひび)
勝利の余熱が冷めかけるころ、噂が出回った。
「中原は、大学で素行が悪い」
「監督を無視している」
「練習後のメニューを勝手に変えている」
半分は事実、半分は虚構。
事実――自分の稽古の最後に、誰もいない土俵で“匂いを聴く”時間を必ず挟むようになった。
虚構――それは山村の許しの内側にある行為だ。
だが、外から見れば「逸脱」に映る。
ある夕暮れ、鳴海大の練習場に、記者が入り込んだ。
焦点は市川。
「中原が俺の言葉に怒っている? 知らない。俺は俺の土俵を取る」
それは、誤解を増幅するために編集され、翌日のネットに乗った。
コメント欄が燃える。
“因縁のライバル”“決裂”“終わった友情”。
火は、簡単に燃え上がる。
だが、燃え尽きた跡に残る炭の匂いは、当事者の胸にしか分からない。
夜、寮の屋上で、勇太はスマートフォンの画面を伏せた。
風が冷たい。
(いい。俺は、迎えに行く)
匂いを、勝利を、そして――あの日の「約束」を。
画面を伏せたまま、小さく息を吐いた。
冬、凍てつく前夜
全国学生選手権――冬の頂。
会場は古い体育館からアリーナに替わり、照明は過剰に眩しい。
観客は満員。
名物の青い天幕の代わりに、巨大なビジョンが取り組みを映し出す。
抽選ボードを見て、勇太は静かに目を細めた。
決勝で、市川と当たる線。
そこまで行けば――
胸のなかに、冷たい炎が灯る。
初戦、二回戦、三回戦。
肩の中で骨が鳴る。
体は、よく動く。
匂いは、濃い。
土の湿り、相手の息の温度、観客のかすかな香水とビニールの匂い――そのすべてが層になって、世界をくっきりと描く。
池野の手拭いは、今日は持ってきていない。
掌の皮だけで、届く。
準決勝――相手は、春からの連勝を止めうる唯一の男と評判の、鹿目。
正面からの破壊力。
立ち合いで頭がぶつかる危険。
山村は短く言った。
「正面に立つな。だが、逃げるな」
「――はい」
のこった。
思ったよりも軽い。
危険は、軽さの中に潜む。
鹿目の頭は来ない。肩が来た。
外す、二分、戻す、半歩、切る。
足の裏に土の声が集まり、腰の芯が鳴った。
最後は、押し切った。
観客席が一瞬で沸き、その音が遅れて勇太に降りかかる。
(行ける)
そう思ったとき、背後から声。
「――決勝、鳴海だ!」
場内がどよめく。
市川、勝った。
決勝は、予定どおりだ。
彼が相撲を選んだわけ 摩雲天 @Yama600
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