第6話
夏の終わり。地方の小さな大会。
青い天幕、蝉の声、焼けた砂の熱、汗の塩。
勇太は、立ち合いの直前に、ポケットの中の手拭いを指で探った。
布の角に触れる。息を吐く。
相手の肩が沈む。
世界が――ほんの、一瞬――色づいた。
乾いた夏の土の匂いが、風に乗って、薄く、鼻先をかすめた。
錯覚かもしれない。
だが、その錯覚は、彼を真っ直ぐに前へ押し出した。
張り手、もろ差し、寄る。
相手が抵抗の角度を間違えた瞬間、肩口から体を捩じり、土俵際へ連れていく。
踏み出す足の下で、砂が柔らかく鳴いた。
――いる。
今、この場所に、確かにいる。
押し出し。
勝った。
土俵を降り、息を整える。
鼻の奥で、ほんのわずかに、土の温度が尾を引いている。
それは香水のように強くはない。
むしろ、風鈴の余韻に似ている。
音が止んだあとも、耳の奥で、風だけが鳴り続ける、あの感じ。
観客席の端に、市川が腕を組んで立っていた。
顎を上げる。
「戻りかけてる」
「……分かるのか」
「顔に書いてある」
二人とも、微笑まなかった。微笑めなかった。
けれど、微笑と同じ温度の沈黙が、そこにあった。
⸻
秋の初め、新明の道場に、勇太は再び向かった。
入口の戸を開けると、掃除の音がする。
畳を拭くリズム。長年の手が覚えた動作の速さと迷いのなさ。
沙織が笑った。
「来てくれて、ありがとう」
「手伝います」
「いいの。もう終わるから。……これ、あなたに」
沙織は、うすい封筒ではなく、小さな紙箱を差し出した。
開くと、中には古い木の札が入っていた。角が丸く、握り跡が黒ずんでいる。
「何ですか」
「彼が昔、子どもたちに渡していた“合図”の札。取り組みの順番を示すためにね。裏に、時々、言葉を書いていたの。あなたのも、あった」
裏返すと、鉛筆で押しつけるように書かれた字があった。
《匂いは、帰ってくる。待つんじゃない。迎えに行け》
指先が、木目の凹凸を拾う。
「……ありがとうございます」
「あの人、あなたのこと、よく話してた。頑張り過ぎるくせに、肝心なときに立ち止まるって」
「ひどいな」
ふたりは小さく笑った。
笑いは、泣くより難しい。だからこそ、同じ温度になる。
帰り道、風が乾いていた。
空は高く、雲は薄い。
歩きながら、勇太は木札をポケットの奥にしまい、掌を空に向けて広げた。
光の粒が指の間をすり抜ける。
その瞬間、遠くのどこかで、乾いた土が、ひとつ、確かに鳴いた。
鼻腔の奥が、わずかに疼く。
――先生、俺は、まだ行けますか。
問いは、もう風にほどけなかった。
彼の内側で、ゆっくりと回り始めた小さな歯車が、別の歯車を噛み、さらに奥の歯車を動かしていく。
音は静かで、確かで、心地よかった。
土の匂いは、まだ薄い。
だが、白ではない。
⸻
夜。寮の屋上。
街の灯が、粒の群れとなって遠くに漂う。
携帯の画面を開くと、未送信の短い文が保存されていた。
《まだ土俵にいる》
相手の名を呼び、送信欄に指を置く。
《匂いは、帰ってくるらしい》
送信。
数秒後、震える。
《迎えに行け》
差出人:市川。
勇太は、空に向かって深く息を吸った。
冷たすぎず、温かすぎない、夜の匂い。
そこに、ほんの少しだけ、土の気配が混じっている。
掌を屋上のコンクリートに当てる。
コンクリートは土ではない。
けれど、やがて土に戻る。
彼は目を閉じた。
立っている。
倒されても、立っている。
土俵の外でも、立っている。
それが、今の彼が持つ、唯一の強さだった。
そして、明日の朝、また土俵に降りる。
迎えに行くのだ。
匂いを。
声を。
あの、世界の底を支える小さな音を。
土の匂いが消えた日のことを、彼は一生忘れないだろう。
だが、同じだけ確かに、戻り始めた夜のことも、忘れないだろう。
静かな風が、屋上の縁を撫でていく。
その風の中で、彼はゆっくりと、もう一度、立ち直った。
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