第5話

三日後、朝の五時過ぎ。

病院の廊下の照明はまだ夜の色で、看護師の足音だけが折りたたまれていく。

モニターの赤い数字が、ゆっくり、静かに、揺れる。

そして、波形は線になった。


音が止まるわけではない。むしろ、すべての音が目を覚ます。

遠くの車のエンジン、廊下の台車の軋み、呼吸の擦れる気配、心臓の内側で鳴る微かな鼓動。

勇太は、耳の中の世界が突然拡張したように感じた。

だが、嗅覚は――白いままだった。

土の匂いではなく、白。

何もない白。


告げられた時刻は午前五時十九分。

沙織は泣かなかった。均整のとれた沈黙の中で、夫の額に手を当てた。

正樹は、僅かに唇を噛み、目を閉じた。

勇太は、何もできなかった。何も、言えなかった。


「誠司さん」

沙織の声は、春の朝の水面のように薄く、揺れた。

「あなたの生徒が、来ているわ」


生徒――

その言葉が、胸の奥のどこか未完成な部屋に響いた。

勇太は、ベッド脇に膝をついた。

「先生。俺、まだ、立てますか」

問いは風にほどけて、どこにも届かなかった。

彼は、長い時間、頭を下げていた。

土の匂いは、やはりなかった。



葬儀は簡素で、清潔だった。

新明連盟の面々、地元の関係者、教え子たち。黒い礼服と白い手袋と、数珠の音。

線香の香りが広間に満ちる。勇太は香の匂いを「香り」として認識できた。だが、その向こうにあるはずの、畳の青さ、木の乾き、外気と混じる土の湿り気――それらは曖昧だった。


正樹は冷静だった。香典返しの箱を配り、挨拶に頭を下げ、母の肩を支え、誰よりも静かだった。地域の年配の人が彼の背に触れるたび、少年の輪郭がきしむのが見えた。

「お父さんは立派な人だったよ」

「……ありがとうございます」


焼香の列で、勇太の前に並んでいたのは、坂東だった。

「中原。お前、来てくれてよかった」

「俺、ただ……何もしなかったです」

「来ることが、することだ」

短い言葉に、救いはなかった。けれど、痛みは少し、形を得た。


遺影の下で、勇太は長く目を閉じた。

あの日々が立ち上がる。

汗、息、砂。

池野の声。

――立たなくなることを恥じろ。

――負けない自分を捨てられるか。

彼は、ゆっくりと頭を下げた。



葬儀のあと、勇太は初めて、新明の道場に立ち寄った。

昼下がり。稽古のない静かな時間。

畳と土の匂い――やはり、ない。

でも、記憶の匂いがあった。

そこかしこに、池野の影が残っている。雑巾掛けの筋、壁に打たれた釘、柱の擦り傷、窓ガラスの曇り。

勇太は、土俵の縁に腰を下ろした。足の裏に、乾いた砂が触れる。感触は、あった。匂いは、ない。


「中原」

背後から呼ぶ声。振り返ると、山村が立っていた。

「監督……どうしてここに」

「連盟の連中に呼ばれた。顔出すくらいの義理はある」


山村は土俵に目をやり、短く言った。

「葬式で、お前を見た」

「はい」

「次の大会をどうする」

「出ます」


即答だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。

「そうか。……なら、稽古を増やす。喪に服して休むのは、お前の選択じゃない」

「はい」


山村は一歩だけ、近づいた。

「中原。匂いが、しないか」

勇太は、わずかに目を見開いた。

「……分かりますか」

「顔に書いてある」

山村は土に片膝をつき、掌で砂を掬い上げた。

「匂いは、感覚の王様だ。そこが死ねば、相撲はただの力比べになる。お前は、ただの力比べがしたくてここにいるのか」

「違います」

「なら、戻せ。嗅げるまで、探せ」


それだけ言って、山村は立ち去った。

残された砂が、勇太の掌で、音もなく崩れる。

砂は、砂でしかない。だが、その砂の向こうに、世界があったはずだ。

彼は目を閉じた。耳で土を聴いた。掌で、温度を測った。脛で、重さを受けた。

匂いは、まだ白い。

白のまま、世界は広がる。



大会は、惨敗だった。

立ち合いの一瞬でつかむはずの気配が、すべて遅れる。

踏み込みの角度、相手の重心、袖の張り……頭で分かっても、体が追いつかない。

二回戦で、勇太はあっさりと押し出された。

土俵下で、砂が跳ねた。その粒が頬に当たっても、やはり匂いはしなかった。


控室で、誰も何も言わなかった。

沈黙は責めるより冷たい。勇太はタオルで汗を拭き、ボトルの水を半分だけ飲んだ。

入口の柱にもたれていた市川が、ゆるく顎を上げた。

「見てた」

「……そうか」

「タイミングが合ってない。お前の外側と内側の時計が、別々に動いてる」

「分かってる」

「分かってたら直るなら、誰も苦労しない」


市川はベンチに腰を下ろし、背中を丸めた。

「葬式、行けなくて悪かった」

「いや」

「お前、泣いたか」

勇太は、答えられなかった。

泣けないことが、泣くよりも苦しいことを、うまく言葉にできなかった。

「泣けないなら、倒れろ。どっちでもいい。体が先に落ちるか、心が先に落ちるか。それだけだ」

市川は乱暴に立ち上がり、出ていった。

残されたのは、水のボトルと、白い匂いと、独りの背中。



その夜、勇太は寮を抜け出し、大学の裏山の造成地に向かった。

工事の手が止まったままの空き地。むき出しの土が夜気に冷えている。

靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、裸足で土を踏んだ。

ひやりとした感触が踵からふくらはぎへと上がってくる。

彼はゆっくりと四股を踏み、腰を割り、吐く息を長く長く伸ばした。

土の匂い。

ない。

もう一度。

ない。

もう一度、もう一度。

膝が笑い、脛が痛み、汗が顎から落ちても、匂いは戻らない。

世界は、静かすぎた。


「先生」

夜に向かって、声が零れた。

「俺は、どこまで行けばいいですか」


答えのない闇に、遠い犬の声がひとつ、ふたつ、滲んだ。



数日後、沙織から小さな封筒が届いた。

薄いクリーム色の封筒に、丁寧な字で宛名が書かれている。

中には、古い白い手拭いと、短いメモ。

《稽古の時に、よく使っていたものです。よかったら、あなたが》

手拭いには、縁に擦り切れた跡があり、角は黄ばんでいた。

鼻に近づけた。

布の匂い。洗い晒しの綿の匂い。

そして――ごく、ごく微かに、乾いた土の、声。

幻聴のように、かすかな何かが鼻腔の奥で震えた。

彼は、息を止め、もう一度、そっと吸い込んだ。

――いた。

砂粒の隙間に残った、午後の稽古の陽光のような、言葉にならない温度。

涙は、出なかった。

だが、胸骨の裏側が、痛んだ。


封筒の底に、もう一枚、小さな紙片があった。筆圧の強い、見覚えのある字。

《立ち続けろ。たとえ土俵の外でも――誠司》

それがいつの書き置きかは分からなかった。

だが、今、届いた。

今、受け取った。


勇太は、机の引き出しから古いノートを取り出した。

一年の春に、池野の言葉を書き留めたページ。

《倒されることを恥じるな。立たなくなることを恥じろ》

《痛みを感じなくなったら、それは弱さだ》

《負けない自分を、捨てられるか》

震える指で、最後の一文の下に、細く線を引いた。



それからの稽古は、形を変えた。

朝の練習のあと、勇太はひとり、土俵の隅に残る。

目を閉じ、呼吸を浅くし、音を絞る。

土の粒の間を風が通る音、窓枠の木がきしむ音、遠くの車輪の擦れる音、同輩の足裏が砂を撫でる音。

匂いではなく、音と温度と圧で、土俵を“嗅ぐ”。

掌で砂を押し、踵で重さを量り、足指で縁を探る。

帰寮後は、白湯に塩をひとつまみ落とし、舌の感覚を徹底的に起こす。

鼻腔を蒸気で温め、冷やし、また温め、呼吸の温度差で世界の輪郭を拾う。

そんなことに意味があるのか、と問う自分を黙らせるために、続けた。


ある夕方、土俵に西日が斜めに差す時間帯、山村が黙って近寄ってきて、砂をひとつまみ指に乗せ、勇太の手に落とした。

「砂を聴け」

それだけ言って、立ち去った。

砂は、彼の掌の上で、微かな音を立てた。

音は、香りの影だ。

影の形を辿れば、いつか本体に触れられる。

彼はそう信じることにした。

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