第4話
第3章 土の匂いが消えた日(大学三年)
春が空の底でまだ固まらないうちに、中原勇太の三年目は始まった。
大学のキャンパスの並木道には、去年と同じように薄桃色の花びらが舞い、学生たちの笑い声が風に溶けていた。だが、その明るさは彼の皮膚を滑っていくだけで、どこにも染み込まない。二年の冬を越えて、勇太の中に残ったものは、乾いた金属の味と、寝起きの胸の奥に沈む重石だった。
練習は変わらず午前五時から。
体育館の裏手に敷かれた土俵は、まだ夜の名残を抱え、うっすらと白んでいる。踏み込むたび、いつもなら鼻を刺すはずの土の匂いが、なぜか薄い。冬のせいだ、と自分に言い聞かせる。季節が変われば戻ってくる、と。だが胸のどこかで、何かが音もなく剥がれ落ちていく気配がしていた。
「中原、拍子が遅い。溜めるな。間を数えるな」
山村監督の低い声が、土俵の縁で転がる石のように響く。
勇太はうなずき、構え直す。立ち合いの一瞬、世界が細くなる。相手の呼吸、肩の微かな震え、砂の跳ね……。すべてを拾い、ぶつかる。押し出した。勝ち、負け、また勝ち。機械のように取り組みを繰り返す。体に残る刺激は、すぐ薄れた。勝利の輪郭も、すぐに溶ける。拍手も歓声も、遠い浜辺の波音に変わっていく。
昼休み、ベンチに座って弁当を開くと、携帯が震えた。画面には、見慣れない番号が点滅している。
「はい――」
『……中原か?』
低く、掠れた男の声。
「はい。どちら様ですか」
『新明連盟の……坂東だ。覚えてるか』
「はい、覚えています」
『……池野さんが、倒れた』
箸が指から滑り落ちた。ベンチの上で弁当の白米に砂がひと粒落ちるのが見えた。
「……いつ、ですか」
『昨夜。搬送されて、今は県立の中央病院だ。意識は、戻っていない』
返事のない沈黙が、電話の向こうに広がる。坂東はひとつ息を吐くように言った。
『お前さんに、知らせておいてくれと……正樹が』
その名を聞いた瞬間、胸の内側で古い扉が軋んだ。
「わかりました。すぐ行きます」
講義も練習も全部、砂のように指の間から落ちた。
駅へ向かう道で、何度も改札の位置を間違えそうになる。切符を買い、電車に乗り、座ったはずの座席の硬さが分からない。車窓の外は春で、畑も川も、光の粒が踊っている。だが、色はなかった。音も、匂いも、なかった。
⸻
県立中央病院の白い廊下は、消毒液の匂いが濃かった。
だが、やはり、その匂いも、どこか遠かった。
エレベーターを降りると、その前に正樹が立っていた。背が伸び、頬が削げ、少年の面影は薄くなっていたが、眼差しだけが昔のまま、真っ直ぐで、傷つきやすかった。
「……よく、来たな」
「池野さんは」
「中だ」
病室に入ると、機械の規則的な音が、砂時計の裏返しのように時間を測っていた。白いシーツ、白い壁、白い息。
ベッドの上で、池野誠司は眠っていた。眠りと言うには深く、沈黙と言うには優しすぎる横顔だった。腕には管、胸には計測器のパッド。勇太は一歩だけ、近づいた。喉がからからに乾いて、言葉が出ない。
「くも膜下だって」
正樹の声が背中越しに落ちた。
「日曜の朝、畳に座ったまま、倒れてたらしい。稽古始める前だった。母さんが見つけた」
「……奥さんは」
「さっき、帰った。着替えを取りに。すぐ戻るって」
勇太はベッド柵に手を置いた。掌の皮膚が金属の冷たさに触れる。冷たい、と頭で理解するのに、体が実感するまでに時間がいる。記憶の底で、池野の声が立ち上がる。
――倒されることを恥じるな。立たなくなることを恥じろ。
――痛みを感じなくなったら、それは弱さだ。
「先生」
初めて声が出た。
「俺、まだ、土俵の匂いを嗅げてますかね」
正樹が勇太の横顔を見る。
「どういう意味だ」
「ここ数週間、よく分からないんだ。土俵に立っても、匂いが……薄い。踏み込んでも、土の鳴き声が、遠い」
「疲れてるだけだ」
「そうだといい」
そのとき、病室のドアが静かに開いた。
黒のカーディガンに薄灰のスカート、控えめな眼鏡――池野の妻、沙織だった。
「……中原くん」
「ご無沙汰しています」
「来てくれて、ありがとう」
彼女はベッド脇に近づき、そっと夫の手を包む。その指先の細さと、指輪の光が痛いほど清潔で、勇太は目を伏せた。沙織は勇太と正樹を交互に見、一呼吸置いて言った。
「彼、最近、疲れてたのよ。連盟の練習も、人が増えて。嬉しい疲れだって言ってたけど……」
言葉が途切れる。
「あの人、負けず嫌いだから」
彼女は、笑おうとして、笑えなかった。
夜が落ちるにつれ、機械の音は眠気を誘う子守歌のように均一になっていく。
見舞いの人影はまばらになり、病棟の窓に街の灯が粒のように貼りつく。勇太は椅子に座り直し、長い息を吐いた。正樹は立ったまま、腕を組んでいた。沙織は祈るように目を閉じている。
――時間は、誰にも等しく降り積もる。ただ、取り残される者と、連れ去られる者がいるだけだ。
そんな考えが頭をよぎったとき、モニターの波形がいったん大きく揺れ、すぐ落ち着いた。微かな音が、針の先で布を刺すように空気を震わせる。
勇太は立ち上がった。正樹も顔を上げた。沙織の指が、わずかに強く夫の手を握る。
その夜は、何も起こらなかった。
だが、彼らは分かっていた。何も起こらないままの夜は、何かが静かに終わっていく夜だと。
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