第二部: 心象風景の暴走とパラドックスの迷宮
左の穴から零れ落ちてきた光は、右の穴から見たそれとは、まるで質が違いました。過去の光が、どこか温かく、郷愁を誘う色合いだったのに対し、未来の光は、氷のように冷たく、鋭利な硝子の破片のように、私の網膜を突き刺したのです。
息を、呑みました。
そこに映し出されたのは、豪奢な、けれど冷え冷えとした祝言の席でした。白無垢に身を包んだ私が、能面のような無表情で座っています。隣には、父が選んだ、顔の知らぬ男。彼は、私に見向きもせず、周りの男たちと高笑いをしています。私は、ただの人形。美しい置物。誰も、私の心の中なぞ覗こうとはしません。その血赤珊瑚の瞳の奥で、魂が静かに死んでいくことに、誰も気づきはしないのです。
……これが、未来?
「圭介の分まで笑って生きる」という、あの約束は?
この、心が死んだ未来のどこに、笑顔などありましょうか。これでは、約束を破ることになる。圭介さんを、裏切ることになる。
嫌だ、こんな未来は。
私の激しい拒絶に呼応するように、万華鏡の中の景色が、ぐにゃりと歪みました。硝子の破片が激しく乱回転し、次の可能性を映し出します。
……そこは、北国の、雪深い小さな家でした。
私は、誰とも結ばれることなく、ただ一人、年老いていきます。窓の外では、雪がしんしんと降り積もり、世界から音を消していく。私の周りにあるのは、圭介さんの残した数冊の本と、色褪せた竜胆のしおりだけ。時折、窓ガラスに映る自分の顔を見て、そこに圭介さんの面影を探す。けれど、あるのは皺の増えた、孤独な女の顔だけ。笑うことも忘れ、泣くことも忘れ、ただ、思い出だけを食べて生きている。これもまた、緩やかな死ではありませんか。
「笑って、生きてほしい」
彼の声が、脳髄に突き刺さります。
これも違う。これもまた、約束の裏切りだ。
裕福な結婚も、孤独な生涯も、どちらも圭介さんの望んだ未来ではない。どちらを選んでも、私は彼との約束を、完膚なきまでに踏みにじることになる。
どうすれば。
どうすれば、よかったのですか、圭介さん。
私の絶望が、臨界点に達しました。
その瞬間、ガタンッ!!と、列車が、今まで聞いたこともないような轟音と共に、激しく揺れました。私は座席から転げ落ちそうになり、必死に肘掛けにしがみつきます。
何が、起きたというのです。
顔を上げ、窓の外を見て、私は絶句しました。
燃える紅葉のトンネルは、跡形もなく消え失せていました。代わりに、窓の外には、あり得べからざる光景が広がっていたのです。
硝子細工でできた森。その枝々には、人魚の涙だと伝えられる真珠が、いくつも実っています。空には、二つの月が浮かび、片方は金色に、もう片方は銀色に輝いていました。眼下には、星々が川となって流れ、天の川ならぬ、地の川が、汽車の線路と並走している。
ここは、どこだ。
ここは、現実ではない。
私の心の迷いが、葛藤が、パラドックスが、この「時渡り」号を、現実と幻想の境界線から、完全に引き剥がしてしまったのです。列車はもはや、北へ向かっているのではない。私の心の中の、どこにも出口のない迷宮を、暴走しているのでした。
私は、よろめきながら立ち上がり、客車の中を歩きました。
誰もいない。
連結された隣の車両を覗いても、そのまた隣を覗いても、誰一人としていやしない。ただ、薄暗い電灯が、空っぽの座席を照らしているだけ。まるで、世界に、私一人だけが取り残されてしまったかのようです。
「誰か!」
叫んでみました。
「誰か、いませんか!」
けれど、私の声は、ただ虚しく、空っぽの空間に吸い込まれて消えるだけでした。
私は、再び窓の外に眼をやりました。
今度は、景色が変わっていました。私の屋敷の書斎が、巨大な姿で車窓の外に聳え立っているのです。窓明かりが灯り、中には、楽しげに語り合う、若き日の私と圭介さんの姿が見えました。幻。分かっている。けれど、その幻影に向かって、私は必死に窓ガラスを叩きました。
「圭介さん! 圭介さん!」
ドンドン、と拳で叩く。指の関節が痛み、血が滲む。けれど、幻の中の二人は、こちらに気づきもしません。
なぜ。
なぜ、あなたは、私を置いて逝ってしまったのですか。
なぜ、こんな、守ることのできない約束を、私にさせたのですか。
涙が、零れ落ちました。
それは、琥珀の涙ではありません。私の、本物の、熱い涙でした。
その涙が、床に落ちた瞬間。
ピタリ、と。
あれほど激しく暴走していた列車が、まるで時間が止まったかのように、静止したのです。
音のない世界。
私は、呆然と、涙に濡れた自分の手を見つめました。
その時でした。
私の背後から、静かな声が聞こえたのは。
『……泣いているのかい、瑠璃さん』
心臓が、凍りつきました。
忘れるはずもない。この世で一番、聞きたかった声。
震えながら、ゆっくりと、振り返る。
そこに立っていたのは、生きていた頃と何一つ変わらない、穏やかな微笑みを浮かべた、圭介さん、その人でした。
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