終章: 夜明けの選択
私の時間だけが、止まっておりました。
目の前に立つ圭介さんは、幻なのでしょうか。それとも、ここは死後の世界で、私もようやく彼の許に来ることができたのでしょうか。思考が、まとまりません。ただ、その懐かしい姿を、血赤珊瑚の瞳に焼き付けることしかできませんでした。
彼は、病の影など微塵も感じさせない、健やかな姿で、静かに微笑んでいます。
『ずいぶんと、無茶をしたようだね』
彼の声は、幻想の汽車の静寂に、優しく染み渡りました。
「圭介、さん……? どうして……」
『君が、僕を呼んだからだよ』
彼は、私の傍らに歩み寄ると、私の手から滑り落ちそうになっていた「泪の琥珀鏡」を、そっと拾い上げました。
『この万華鏡は、確かに未来の可能性を見せる。けれど、それはあくまで、可能性の一つに過ぎない。君が、そのどちらかを選ばなければならない、という決まりなど、どこにもないんだよ』
彼の言葉は、まるで固く絡まった糸を、一本一本丁寧に解きほぐしていくかのようでした。
「でも、約束が……。あなたの分まで、笑って生きるという……」
『ああ、そんな約束に、君を縛り付けてしまっていたのか。すまなかった』
圭介さんは、悲しげに眼を伏せました。
『僕が本当に望んでいたのは、君が誰かの決めた筋書きの上で生きることじゃない。君自身の足で立ち、君自身の意思で、君だけの物語を紡いでいくことだったんだ。たとえそれが、茨の道であったとしても。たとえ、そこに、僕がいなくても』
彼の指が、私の頬を伝う涙を、そっと拭いました。その感触は、驚くほど、温かかった。
『忘れてくれていい、と言ったのは嘘だ。できることなら、君の記憶の片隅に、僕という男がいたことを、留めておいてほしい。けれど、思い出は、君を未来へ進ませるための糧であって、君を過去に縛り付けるための枷であってはならないんだ』
その時、私は、ようやく理解したのです。
圭介さんの、真の願いを。
彼が私に託したのは、「幸せになれ」という命令ではなく、「幸せを探してほしい」という、切なる祈りだったのだと。
万華鏡が見せた二つの未来。
親の決めた結婚も、孤独に朽ちる道も、どちらも「誰かが用意した未来」あるいは「過去に囚われた未来」でした。
そのどちらも選ばない。
第三の道。
白紙の地図に、私自身の手で、新しい道を描いていく。
それこそが、彼との約束を、本当の意味で果たすことのできる、唯一の方法だったのです。
『夜が、明けるようだ』
圭介さんが、窓の外を指さしました。
見ると、硝子細工の森も、二つの月も、星の川も、すべてが薄明の光の中に溶け始めていました。そして、その向こうから、現実の、朝の光が差し込んできます。
幻想の終わり。旅の終わり。
『さあ、お行き、瑠璃さん。君の汽車が、駅に着く』
「圭介さんは……? 一緒に、行ってはくれないのですか」
『僕は、もう、君の思い出の中にしかいない人間だからね』
彼は、寂しげに、けれど、はっきりとそう言いました。
そして、私の手に、あの竜胆の押し花のしおりを、そっと握らせてくれました。
『だが、これだけは信じてほしい。君がどんな道を選ぼうとも、僕は、いつでも君の悲しみに寄り添っている』
彼の姿が、朝の光の中で、徐々に透き通っていきます。
行かないで、と叫びたい。けれど、私は、唇を強く噛み締め、その言葉を飲み込みました。
「……ありがとう、圭介さん。さようなら」
私がそう告げた瞬間、彼の姿は、光の粒子となって、ふっと消えました。
同時に、汽車の世界が、急速に現実へと再構築されていきます。幻想の景色は、霧深い北国の、ありふれた風景へと変わり、空っぽだった車内には、いつの間にか眠りこけている乗客たちの姿が戻っていました。
キィィィ……という長いブレーキ音と共に、列車はゆっくりと速度を落とし、やがて、完全に停止しました。
『終点、終点。××駅です』
車掌の、どこか間の抜けた声が響き渡ります。
私は、外套のポケットに「泪の琥珀鏡」を仕舞い込み、竜胆のしおりを強く握りしめたまま、ホームへと降り立ちました。
冷たい、けれど、清々しい朝の空気が、私の肺を一杯に満たします。
私は、もう逃げてはいません。
この場所が、私の新しい物語の、始まりの場所なのです。
私は、胸に抱いた万華鏡に、そっと語りかけました。
その珊瑚の瞳には、かつてのような怯えも、絶望もありません。ただ、すべての哀しみを受け入れた、凪いだ湖面のような、静かな微笑みが宿っていました。
「着いたわ、圭さん。ここが、私たちの駅よ」
私の旅は、今、ここから始まるのです。
あの人との思い出と共に、未来へと歩き出すために。
瑠璃色の夜 森中ちえ @SnowOwl0141
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