第一部: 追憶への沈潜

 夜が深まるにつれ、あれほど騒がしかった車内は、水を打ったように静まり返りました。乗客たちの囁き声は途絶え、規則正しい走行音と、時折窓を叩く木枯らしの音だけが、世界のすべてであるかのように響き渡ります。窓の外は、完全な闇。月も星も見えず、まるで墨汁を塗りたくったかのようです。私は、このまま汽車ごと、奈落の底へ落ちていくのではないかという、甘美な恐怖に襲われました。


 私は懐から、あの人の形見を取り出しました。

 まずは、黒檀の筒。月の満ち欠けを表す螺鈿細工が、車内の薄暗い電灯の光を受けて、青白く妖しい光を放っています。覗き口は冷たい真鍮製。圭介さんの一族に伝わるという、「泪の琥珀鏡」。涙の形をした琥珀が、筒の中でカラリと乾いた音を立てました。


『これを使って、君だけでも幸せな未来を選んでほしい』


 彼の言葉が蘇ります。けれど、今の私に未来など。未来を覗く勇気など、あろうはずもありません。私は震える指で、万華鏡をくるりと回し、右の穴――「あり得たかもしれない過去」を映し出すという、その禁断の穴に、そっと右眼を押し当てました。


 瞬間、世界が砕け散りました。

 色とりどりの硝子の破片が、闇の中で万華の模様を描き、零れ落ちていきます。そして、その光の渦の中心に、一つの情景が浮かび上がりました。


 ……我が家の、西向きの書斎。

 壁一面を埋め尽くす洋書。革の匂いと、古い紙の匂い。そして、午後の柔らかな陽光が、窓から差し込んでいる。

 そこに、あの人がいました。圭介さんが。


 彼は、地方出身の貧しい書生でした。けれど、その類まれなる才能を父に見込まれ、我が家に書生として住み込みながら、帝國大学で文学を学ぶことを許されていました。そして、出来損ないの人形であった私の、家庭教師という役目も与えられていたのです。


『瑠璃さん、今日はワーズワースを読みましょうか。英国の湖水地方の詩です』


 彼の声は、低く、穏やかで、私のささくれた心をそっと撫でるようでした。彼は、私が今まで知らなかった世界の扉を、次々と開いてくれました。海の向こうの物語、星の神話、哲学者の言葉。彼の語る言葉の一つ一つが、乾いた砂地にしみこむ水のように、私の空っぽの心を満たしていきました。


 書斎での時間だけが、私の真実でした。親の前で見せる作り笑いも、世間から向けられる奇異の視線も、そこではすべて意味を失いました。


 万華鏡の中の景色が変わります。光の粒が、再び零れ落ちていく。

 現れたのは、雨の日の縁側。紫陽花が、涙のように濡れています。

 私は、俯いていました。学校の同級生に、この赤い瞳を「化け物」と罵られた日のことでした。


『どうして、私だけ、こんな色なのでしょう』


 ぽつりと漏らした私に、圭介さんは、驚くほど真剣な顔でこう言ったのです。


『美しい、と僕は思います』

『……え?』

『南の海の、深い場所でしか採れない、血赤珊瑚。まさしく、その色だ。誰も持っていない、瑠璃さんだけの宝物ですよ。僕は、その瞳に映る世界を見てみたい』


 生まれて初めてでした。この忌まわしいと思っていた瞳を、肯定されたのは。

 その瞬間、私の内側で、何か硬いものが、音を立てて砕け散ったのです。涙が、止めどなく溢れました。それは、悲しい涙ではありません。凍てついていた魂が、ようやく溶け出した、温かい涙でした。


 ああ、そうだ。この時からでした。私が、この人を愛してしまったのは。

 この人の前でだけ、私はただの「瑠璃」でいられた。出来損ないの人形ではなく、心を持つ一人の人間として、息をすることができたのです。


 万華鏡の模様が、また変わります。今度は、紅葉の燃える庭。

 けれど、そこに立つ圭介さんの顔は、驚くほど青白く、時折、堪えきれないといったように激しく咳き込んでいました。彼の命が、結核という不治の病に蝕まれていることを、私はまだ知りませんでした。いいえ、薄々感づいていながら、認めたくなかったのです。


『瑠璃さん、約束してください』

 彼は、私の手を、熱っぽい、けれど力のない手で握りしめました。

『僕のことは、忘れてくれていい。だから、どうか、君は幸せになるんだ。僕の分まで、たくさん笑って、生きてほしい』


 嫌だ、と叫びたかった。あなたがいなければ、生きている意味などない、と。

 けれど、彼の必死な眼差しを前にして、私はただ、こくりと頷くことしかできませんでした。それが、私と彼の、最後の約束となりました。


 ……気がつくと、汽車の窓の外の景色が、万華鏡の中の景色と重なって見えました。闇の中を走っていたはずの列車が、いつの間にか、燃えるような紅葉のトンネルを潜り抜けているのです。車窓を叩くのは、木枯らしではなく、数えきれないほどの紅い葉。まるで、私たちの最後の日の記憶が、現実を侵食しているかのようでした。


 私は、はっとして万華鏡から眼を離しました。

 車内を見渡すと、いつの間にか、あれほどいた乗客たちの姿が、一人もなくなっていました。がらんとした客車に、私、ただ一人。まるで、この列車が、私というたった一人の乗客を乗せて、時間の迷宮を走っているかのようです。


 私は、もう一つの形見を、強く握りしめました。

 圭介さんが愛読していた洋書の間に挟まっていた、竜胆の押し花のしおり。

 彼の最後の贈り物。


「あなたの悲しみに寄り添う」


 それが、竜胆の花言葉だと、いつか彼が教えてくれました。


 万華鏡が見せるのは、甘く、そして残酷な過去の幻。

 けれど、この乾いた花びらの感触だけが、彼の愛情が確かに此処にあったのだという、唯一の現実の証でした。


 私は、再び万華鏡に手を伸ばしました。

 過去に浸るのは、もう、終わりです。

 彼との約束を、果たさなければ。

 震える指で、私は、今まで決して覗こうとしなかった、左の穴――「これから起こる未来の可能性」を映し出すという、その絶望の穴を、ゆっくりと、ゆっくりと、眼に近づけていくのでした。

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