瑠璃色の夜
森中ちえ
序章: 現実からの逃避行
私という人間は、恐らく、生まれ落ちた時から出来損ないの人形だったのに違いありません。美しい着物を着せられ、磨き上げられた屋敷という名の硝子ケースに飾られ、ただ微笑んでいればよい、そういう空っぽの器。その証拠に、私のこの両の眼は、まるで人のものではないのです。血を吸った珊瑚の珠を埋め込んだような、禍々しいまでの深い赤色。父や母ですら、私のこの瞳をまともに見ようとはしませんでした。まるで、そこに映る自分たちの姿に呪いでもかかるのを恐れるかのように。
ですから、私がこの家から逃げ出すのは、もはや必然であったと言えましょう。
木枯らしが屋敷の雨戸をカタカタと震わせる、秋の夜更けで御座いました。私は、寝間着の上に羽織を一枚引っ掛けただけの、およそ当家の令嬢らしからぬ姿で、自らの部屋を抜け出しました。廊下に敷かれた分厚い絨毯が、私の足音を吸い込み、まるで世界のすべてが私の逃亡に加担してくれているかのような、不気味な静寂が満ちておりました。
逃げる理由。それは、あまりに陳腐で、けれど私にとっては死刑宣告にも等しいものでした。親の決めた、顔も知らぬ男との縁談。貿易商として成功した父が、事業拡大のために結んだ、ただの契約。私の心なぞ、そこには勘定されておりません。私は商品で、私の未来は値札のついた反物のように、あっさりと他人の手に渡されようとしていたのです。
「圭介の分まで、笑って生きるんだ」
あの人の、掠れた最後の声が、耳の奥で木霊します。
笑う? この私が? 心を殺し、愛を知らぬ男の隣で、どうやって笑えというのでしょう。それはもはや笑顔ではなく、能面を張り付けた道化の所業ではありませんか。そんなものは、あの人との約束を、最も醜い形で裏切ることに他なりません。
だから、逃げるのです。行き先など、ありません。ただ、この息の詰まる硝子ケースから、北へ、どこか遠い場所へ。
闇に紛れてたどり着いた上野の駅は、別れと出会いの匂いが渦巻く、混沌とした場所でした。蒸気機関車の吐き出す煤けた匂い、人々の汗の匂い、そして、これから始まる旅への微かな期待と、それ以上の途方もない不安の匂い。私は人波をかき分けるようにして、北へ向かう夜行列車の最終便、「時渡り」号の客車に滑り込みました。
発車の鋭い汽笛が、私の鼓膜を突き破りました。ガタン、と重い衝撃と共に、車体がゆっくりと動き出す。窓の外で、駅の灯りが、私の過去が、急速に後ろへと流れていく。私は、ようやく深く、長い息を吐きました。解放感。いいえ、それは違います。ただ、檻から別の、もっと広大で先の見えない檻へと移されたに過ぎないという、漠然とした予感。
客車の中は、思いのほか混み合っておりました。疲れた顔の行商人、故郷へ帰るらしい若い娘、読書に没頭する学生。誰も彼もが、私という異質な存在には目もくれず、それぞれの時間を生きています。私は窓際の席に深く身を沈め、外套の懐に忍ばせた二つの宝物に、そっと指で触れました。
一つは、ずしりと重い、黒檀の筒。
もう一つは、乾いて張り付くような感触の、押し花のしおり。
あの人の、形見。
私の世界の、すべて。
汽車は闇を切り裂き、速度を上げていきます。レールの継ぎ目を越える規則正しいリズムが、子守唄のように、あるいは死へ向かう葬送曲のように、私の意識を揺さぶり始めました。ああ、そうだ。私は今、生きるために逃げているのか、それとも死ぬために走っているのか。それすら、もう、判然としないのでした。
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