第2話:トレーニー
勇者の出現から三年後──
「ふんっ!ふんっ!」
自宅の一室で、一人黙々と筋トレに励む男がいた。今年で十八になる青年、セドリック。
金髪で碧眼、整った顔立ちをしており、背は百八十センチほどあるだろうか。そして何より目を引くのは、鍛え抜かれた美しくもたくましいボディだ。靭やかでありながらも力を込めれば鋼鉄のように固くなる、良質な筋肉。それは芸術品のように全身を覆い、一つ一つの筋繊維が呼吸するように動いている。
彼が今取り組んでいるのは、懸垂マシンでのハンギングレッグレイズ。足首には五キロはあろうかという重りを装着し、完璧なフォームで腹筋を鍛え続けている。
九百九十七、九百九十八、九百九十九──
「一千回」
セドリックは軽く息を吐き、マシンから降りた。額には薄っすらと汗が浮かんでいるが、呼吸は乱れていない。
「やはりこんなに軽い負荷では千回やろうともこれ以上の成長は見込めないな…もっと重い錘を用意しないと」
彼がそう呟いた瞬間、部屋の隅に置いたタイマーの音がピピピッと鳴り響いた。
「よし、行くか」
セドリックはタオルで汗を拭うと、玄関へと向かった。ランニングシューズに履き替え、軽くストレッチをする。その動きは流れるように美しく、無駄が一切ない。
扉を開けた瞬間、彼の姿が疾風のように消えた。
「あら、セドリックくん、今日も精が出るわね!」
近所に住むエルダ夫人が、庭の花に水をやりながら声をかけた。しかし彼女の目には、セドリックの姿が一瞬しか映らない。
「こんにちはエルダおばさん!」
「王国騎士も夢じゃ…ないんじゃないかしら?」
エルダ夫人が続けて言おうとした言葉は、既に遠ざかっていくセドリックの背中に届くことはなかった。
「あら…もうあんな所まで。前よりも走る速度、速くなってないかしら?いえ、気のせいよね…」
首を傾げながら、エルダ夫人は再び花壇に目を戻した。
「ふっ、ふっ、ふっ」
リズミカルな呼吸音だけを残して、セドリックは街道を駆け抜けていく。
前方を走る自転車を軽々と追い越す。馬車さえも置き去りにする。道行く人々は、突風が過ぎ去ったかのような感覚に襲われ、振り返った時には既に彼の姿は遠くに消えている。
走り続けること一時間。既に四十キロ地点まで来ていた。時速四十キロで一時間走り続けていることになるが、セドリックはまだまだ余裕そうな表情を浮かべている。むしろ、どこか物足りなさそうですらあった。
「あと一時間走るか…少し速度を上げよう」
そう呟くと同時に、彼の速度が更にもう一段階上がった。
道行く人々は皆、セドリックに注目せざるを得ない。彼の走った跡の道は、土であれば抉れ、コンクリートであっても削れて砂埃が舞ってしまうほどの勢いがある。まるで小型の竜巻が地面を這うように過ぎ去っていくかのようだ。
「魔物か!?」
「いや、人間だ!人間が走ってる!」
「嘘だろ…あんな速度で…」
驚愕の声が後方から聞こえてくるが、セドリックは気にも留めない。ただひたすらに、己の限界を超えることだけを考えている。
二時間後、自宅に戻ったセドリックは、ようやく満足げな表情を浮かべた。
「ふう、いい汗かいた」
玄関で靴を脱ぐと、まっすぐキッチンへ向かう。すでに用意してあったプロテインシェイカーに、冷たい水とショコラ味のプロテインパウダーをスプーン三杯分入れる。
シャカシャカシャカ──
念入りにシェイクする音が台所に響く。この製品は少し玉になりやすいらしく、セドリックは上下左右、あらゆる角度からシェイカーを振り続けた。
「タイミングは諸説あるが、俺は有酸素運動後のプロテイン補給が一番好きだなあ。筋肉に染み込んでいく感覚がたまらない」
蓋を開け、ごくごくと喉越しを感じながら一気に飲み干す。冷たい液体が喉を通り、体の内側から満たされていく感覚。これこそがセドリックにとっての至福の瞬間だった。
「ふう…よし、風呂行くか!」
空になったシェイカーを軽く水で流し、セドリックは浴室へと向かった。
湯船に浸かりながら、セドリックは今日のトレーニングを振り返っていた。
「やはり負荷が足りない…もっと追い込まないと、あの領域には届かない」
彼の脳裏に浮かぶのは、三年前に現れた勇者の姿。
圧倒的な力で魔王軍を蹴散らし、世界を救った英雄。セドリックが目指すのは、王国騎士などではない。彼が心から憧れ、目指しているのは──
「勇者だ」
その言葉を呟いた瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴォォォォッ!
突如、家全体が激しく揺れた。
「地震か!?」
セドリックは反射的に湯船から飛び出した。しかし揺れは地震特有の横揺れではない。まるで何か巨大なものが地面を踏みしめているような、規則的な振動だ。
ドシン、ドシン、ドシン──
「これは…」
嫌な予感が脊髄を駆け上る。セドリックは濡れた体も気にせず、裸のまま脱衣所から廊下へ飛び出した。玄関を開け放ち、外の様子を確認する。
その瞬間、彼の目に飛び込んできた光景に、思わず息を呑んだ。
「なっ…!」
通りの向こう、エルダ夫人の家の前に、それはいた。
高さ三メートルはあろうかという巨大な人型の魔物。しかしそれを「人型」と呼ぶには、あまりにも異形すぎた。
灰色の肌は岩のようにゴツゴツとしており、所々に紫色の結晶のようなものが突き出ている。頭部は人間のそれに似ているが、顔の中央には一つの巨大な目玉が鈍く光り、口は耳元まで裂けて鋭い牙が無数に並んでいる。
両腕は異様に長く、地面に届くほど。その腕には人間の二倍はあろうかという太さがあり、先端には鋭い鉤爪が五本ずつ生えている。
そして、その魔物の鉤爪が──
「きゃあああああ!」
エルダ夫人に向かって振り下ろされようとしていた。
夫人は腰を抜かして地面に座り込み、目を固く閉じている。逃げることも叶わず、ただ死を待つしかない状況。
「エルダおばさん!!」
セドリックの叫び声が、静まり返った街に響き渡った。
裸のまま、濡れた髪から水滴を飛ばしながら、彼は地面を蹴った。
その速度は、先ほどのランニングの比ではない。まるで稲妻のように、一直線に魔物へと向かっていく。
魔物の鉤爪がエルダ夫人に触れる、その瞬間──
ドガァッ!!
凄まじい衝撃音と共に、魔物の腕が横から吹き飛んだ。
セドリックの飛び蹴りが、魔物の前腕部に直撃したのだ。
「がァァァァッ!!」
魔物が初めて声を発した。それは人間の悲鳴とも獣の咆哮とも違う、この世のものとは思えない不気味な音だった。
「おばさん、早く逃げて!」
セドリックはエルダ夫人の前に立ち塞がるように着地し、魔物を睨みつけた。
裸で、濡れた体で、しかし彼の眼光には一片の恐怖もない。
むしろ──
「ようやく…ようやく来たか」
その顔には、歓喜とも言える笑みが浮かんでいた。
「本物の戦いを、俺は…ずっと待っていたんだ!」
魔物の一つ目がセドリックを捉える。そして、理解した。
目の前のこの小さな人間が、自分にとって脅威となり得ることを。
「ガアアアアアアアァァァッ!!」
魔物は両腕を大きく広げ、セドリックに向かって突進してきた。
地面が揺れ、周囲の家々の窓ガラスがビリビリと震える。
しかしセドリックは、微動だにしなかった。
「来い──!」
彼の全身の筋肉が、鋼鉄のように硬化する。
三年間、ただひたすらに鍛え続けてきた肉体。
その真価を示す時が、ついに訪れたのだ。
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