勇者伝 ~鍛え抜いたフィジカルが最強すぎる~
スリッパ
第1話:プロローグ
──勇者
それは、魔王を始めとする魔族によって恐怖のどん底に叩き落された人々にとって、希望の光そのものだった。
正義の心を持ち、愛に溢れ、常軌を逸した強さで人類を魔の手から救う。伝説はそう語り継がれてきた。
三百年前、初代勇者アルディウスは四人の仲間とともに力を合わせ、絶望の化身とも呼ばれた魔王ゼノンを退けた。戦いは七日七晩に及び、大陸の地形そのものを変えたとさえ言われている。
魔王の死とともに、魔族の大半は姿を消した。残された魔物たちも徐々に数を減らし、やがて人々の記憶から「魔」という概念は薄れていった。
平和が訪れたのだ。
人類が心から望んだ、平和が。
初代勇者が人類を救ってから三百年──
文明は着々と進歩し、人類の生活はかつてないほど豊かなものになっていた。
魔法技術と機械工学の融合により、街には魔導灯が灯り、夜も昼のように明るい。魔導列車が大陸を横断し、かつて何ヶ月もかかった旅が数日で完了する。通信魔術の発達により、遠く離れた場所にいる人間とも即座に会話ができる。
食料は豊富で、娯楽は多彩。医療技術の進歩により、かつては不治の病とされたものの多くが治療可能となった。
人々は、これが幸福な時代だと信じていた。
少なくとも、表面上は。
しかし、豊かな生活と引き換えに失われたものがあった。
それは、人間らしさだった。
現代社会は、いつしかストレスフルな檻へと変貌していた。時間を切り売りし、社会の抑圧に耐えながら生活することが日常となった。朝から晩まで工場や事務所に詰め込まれ、魔導機械のように働くことを求められる。
成果を出せなければ容赦なく切り捨てられ、成果を出しても更なる成果を求められる。終わりのない競争。底なしの欲望。
かつて、魔族の脅威に晒されていた時代には確かにあった、人々の目の輝きが失われていた。危機に瀕し、不便な暮らしをしていた時代にあった活気、互いを思いやる心、明日を生きるための希望──それらは、豊かさという名の檻の中で、静かに窒息していった。
人々の気持ちは、「生きたい」から「早く死にたい」へと変わりつつあった。
魔族という共通の敵が消えた世界で、人類は新たな敵を見つけた。
それは、同じ人間だった。
七大陸を統べる七つの国家は、資源を巡って争い、領土を巡って争い、思想を巡って争った。人対魔族の構図は、いつしか人対人の紛争・戦争へと姿を変えていた。
かつて魔王と戦うために団結した人類は、今やお互いの喉元に刃を突きつけ合っている。
さらに、文明の発展は新たな問題を生み出した。
工場から吐き出される黒煙は空を覆い、廃棄された魔導機関の残骸は大地を汚染する。森林は次々と伐採され、かつて清らかだった川は濁り、生き物たちの楽園だった湖は死の水溜まりと化した。
環境破壊、資源枯渇、貧富の格差、民族対立──
様々な問題を抱えた人類は、もはや外敵に滅ぼされるのではなく、自らの手で絶滅への道を進んでいるとも言えた。
そして、それらすべてが、ある一つの現象を引き起こしていた。
古来より、魔法学者たちの間では知られていた事実がある。
この世の全ての生物が発する陰の気──憎悪、絶望、恐怖、悲しみ、怒り、嫉妬──それらの負の感情は「魔素」として世界に滞留する、という事実だ。
魔素は目に見えない。臭いもしない。普通の人間には感じることすらできない。
しかし、確実に存在している。
そして、魔素がある一定以上の濃度を超えると、それは魔物を生み出す、あるいは既存の魔物を活性化させる原因となる。
三百年前、魔王ゼノンが生み出した恐怖と絶望が魔素となって世界を覆い、無数の魔物が跋扈していた。勇者たちが魔王を倒したことで、その魔素は徐々に浄化され、魔物たちも力を失い消えていった。
だが──
人類が自らの手で生み出している負の感情の総量は、もはや魔王が生み出していたそれを超えつつあった。
王立魔法研究所の観測によれば、ここ十年で魔素濃度は急激に上昇している。特に都市部、戦場跡、処刑場、そして貧民街──人々の負の感情が集中する場所では、危険水準に達しつつあった。
研究所は何度も警告を発した。
しかし、各国の為政者たちは耳を貸さなかった。目先の利益、権力闘争、戦争準備──それらに忙しく、「魔素」などという目に見えないものに構っている余裕はなかったのだ。
そして、ついにその時が来た。
王歴三〇三年、春。
辺境の村から、信じられない報告が届いた。
「魔物が現れた」と。
最初は誰も信じなかった。魔物など、もはや伝説の中の存在。子供を寝かしつけるための怖い話に登場する、架空の生き物。
しかし、報告は次々と届いた。
北の山岳地帯で、岩のような巨人が村を襲った。
東の森林地帯で、三つ首の狼が商隊を全滅させた。
南の海岸で、触手を持つ巨大な甲殻類が漁村を壊滅させた。
西の砂漠で、砂の中から巨大な芋虫のような生物が出現し、キャラバンを飲み込んだ。
そして、それらの報告に共通していたのは──
「伝説の中の魔物よりも、遥かに強大で恐ろしいものだった」という証言だ。
各国は慌てて軍を派遣したが、通常兵器では魔物にほとんどダメージを与えられない。予算を削られ、ギリギリ存続している状態の魔法使いの部隊も派遣されたが、有効打を与えることはできずに苦戦を強いられた。
人類は理解した。
三百年の平和の後、再び「魔」が戻ってきたことを。
世界は厳戒態勢に入った。国家間の争いは一時的に休戦し、魔物への対処が最優先事項となった。
しかし、ある者たちは知っていた。
これは始まりに過ぎないことを。
そして、魔物の出現からわずか一週間後──
七大陸のうちの四つの国で、ほぼ同時に報告が上がる。
「勇者が現れた」と。
北の大国アルディア王国では、十六歳の少女レイナが、突如として目覚めた魔力を使い、魔物を一撃で倒した。能力を発動した時、彼女の額には勇者の証である光の紋章が輝いていた。
東の帝国ゼルディウスでは、十七歳の少年カイトが、一夜にして剣の達人となり、魔物の群れを単独で殲滅した。彼の右手には、聖剣が握られていた。
南の連合国家リベリオンでは、十八歳の青年マルコスが、光の鎧と盾を身に纏い、魔物に襲われた都市を救った。その力は目撃者たちを震撼させた。
西の砂漠王国サハラディアでは、十五歳の少女ファティマが、古代の神殿で勇者として覚醒。砂漠を支配しようとする魔物を屈服させ、使役した。
四人の勇者。
それぞれが異なる国で、異なる状況で現れた。
しかし、彼らに共通していることがある。
全員が、魔物の出現と同じタイミングで力に目覚めたということ。
そして──
勇者の出現が意味するのは、歴史が証明している。
ただ一つ。
魔王の再来
三百年前の悪夢が、再び繰り返されようとしていた。
いや、もしかしたら、前回以上の災厄が人類を待ち受けているのかもしれない。
なぜなら、今回の魔素は人類自身が生み出したものだから。
人類の業が形を成したものだから。
世界は、再び運命の岐路に立っていた。
そして、四人の勇者が現れてから三年──
世界のどこか、名も無き街の片隅で。
誰にも知られず、ただひたすらに己を鍛え続ける一人の青年がいた。
彼の名はセドリック。
勇者に、誰よりも憧れる少年。
彼の物語が今、始まろうとしていた。
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