第2話:出発

「どこか痛むところや、違和感を感じる場所はあるかい?」


「ああ。不思議なことに、どこも痛くないし、違和感もない。」


ゆっくりと手を握り、足を動かしてみる。けれど痛みはなく、身体は驚くほど軽かった。


「そうか。もし何かあったら、すぐ教えてくれ。」


金髪の青年——ダリウスが安堵したように笑うと、続けた。


「僕らは今から外に出ようと思ってるんだけど、君も来るかい? それと、僕らの間では敬語を使わなくても大丈夫だよ。君は見たところ、僕らと同じくらいの年齢だし、話しにくいだろ?」


俺のぎこちない敬語を気遣ってくれたのだろう。

その優しさに胸の中が少し温かくなって、自然と笑みがこぼれた。


「……わかった。これからよろしく。俺も外に行きたい。この世界を、自分の目で見て確かめたい。」


今、この惑星を蝕んでいるという“ケモノ”と呼ばれる化け物。

その存在がどれほど恐ろしいのか、そしてこの世界がどれほど壊れてしまったのか。


見なければ、何も始まらない。


「もちろん!じゃあ全員で行こう。」


ダリウスは弾むように立ち上がり、軽く手を叩いた。


「この国は比較的安全な方だけど、何が起きるか分からない。だからできるだけ僕らから離れないようにしてくれ。——さ、準備をしよう。こっちだ!」


そう言って歩くダリウスに案内されたのは彼の自室だった。

綺麗に整理整頓されており、本棚には本がびっしりと詰まっている。暖かな暖色であふれかえる部屋は来た者に安らぎと安寧を与えてくれそうだ。


「流石にその格好は目立ってしまうからね。幸い、僕と君の身長差はそれほど無いみたいだ。僕の服で良ければ着てくれ。」


そう言われて、ようやく自分がまだ高校の学ランを着ていることに気づいた。

この世界の中で、黒の詰襟制服はどう見ても浮いている。


「えっと……俺、お洒落な服装がわからなくて。申し訳ないんだけど、選んでもらってもいい…?」


「いいとも!」


ダリウスは快く頷くと、軽やかにクローゼットの方へ歩き出した。

扉を開けた瞬間、ふわりと香る異国の布の匂い。革、金属、上質そうな布…

器用に服を手に取りながら、真剣な目で色の組み合わせを吟味している。


「君の綺麗な黒髪と蒼い瞳に似合う服を選ぶよ。そうだな……」


その言葉に少し照れながら、俺は静かにその背中を見つめていた。


この世界で出会ってまだ数時間の人が、こんなにも自然に俺のことを気にかけてくれるなんて。

不安と緊張に押しつぶされそうだった胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。

やがて10分ほど経った頃、ダリウスは数着の服を腕に抱えて戻ってきた。


「君に似合うのはこの辺の服だと思う。よければ着てみてくれ。」


差し出されたそれは、思わず息をのむほど美しい服だった。

サファイアブルーを基調に、金糸の繊細な刺繍が走る軽装のジャケット。

黒いシンプルなTシャツは無駄がなく、柔らかい生地が手に馴染む。

パンツは動きやすそうなタクティカル仕様で、どんな地形でも対応できそうだ。

足元はスニーカーのようで、履きやすそうだ。

そして最後に、蒼色の宝石がはめ込まれた黒い片手袋。

その石が、俺の瞳の色と同じように、静かに光を放っていた。


一つひとつ身に着けていくたび、体に馴染んでいくような感覚がある。

布の軽さも、空気を切る感触も、まるでこの世界の空気に馴染むために作られたようだった。


「うん、思った通りよく似合っているよ!」


満足げに微笑むダリウス。

その笑顔につられるように、俺も鏡に映る自分を見つめた。

そこに立っていたのは、見慣れた“高校生の俺”ではなく、


確かに——この世界に生きる一人の“冒険者”だった。


「ありがとう、ダリウス。お洒落だし……とても動きやすい。」


言葉にしてみて初めて、心の底からそう思っていることに気づいた。

ほんの少し、胸の奥で何かが前へ進んだような気がする。


「それはよかった!気に入ってもらえたようで嬉しいよ。きっとこれから先、服はもっと必要になるだろうから、街で買っておこう。さあ、二人が待っている。そろそろ行こうか。」


そう言って手を差し伸べるダリウスの姿は、まるでこの異世界の光そのもののようだった。

俺は深呼吸を一つして、その手を取った。




「おかえり!お、ダリウスに服借りたんだね。よく似合ってるじゃん!」


振り向くと、そこにはすでに出発の準備を終えたミアが立っていた。

陽の光を受けて、彼女の髪飾りがきらりと光る。

どうやら俺たちの支度が終わるのを待っていたようだ。


「ありがとう。ダリウスが選んでくれたんだ。」


そう言うと、ミアは嬉しそうにぱっと笑った。


「そうなんだ!やっぱりダリウスってセンスいいよね〜。あの人、服のセンスは本当にずば抜けてるんだよ。……やっぱり、貴族だからかな?」


「え、ダリウスって、貴族なの?」


思わず聞き返してしまった。あんな気さくな人が、貴族?想像がつかない。


「うん、そうだよ?」


ミアはこともなげに言って、腰のポーチを整えながら続けた。


「正確に言えば、“貴族相当”の家の出身だけどね。」


「貴族相当……?どういうこと?」


「えーとね、このエルネシア都市国家には、“公爵”とか“伯爵”みたいな貴族の位は存在しないの。」


ミアは人差し指を立て、少しだけ講義口調になる。


「代わりに、この国を動かしている十つの家があるんだよ。彼らは政治、軍、商業、宗教……それぞれの分野で国家の根幹を担っていて、みんなから“重鎮”って呼ばれてるの。」


「十つの家……」


俺は思わずつぶやいた。

つまり、ダリウスはその十家のうちの一つの生まれってことか。


「そうそう。で、ダリウスの実家“ヴァルト家”は、その十家の中でも政治をメインに司る家。外交から内政、議会での発言力までトップクラス。いわば、エルネシアの心臓部って感じだね〜。」


……あの優しい笑顔の裏に、そんな肩書きがあったなんて。

急に、気安く話しかけたことを思い出して、背筋が少し冷たくなる。


「……俺、さっきタメ口で話しちゃったんだけど……首、飛ばない?」


ミアは一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。


「あっはっはっはっはっは!大丈夫だよ〜!」


笑いすぎて涙まで浮かべながら、息を整えて続ける。


「そもそもダリウスが“タメ口でいい”って言ったんでしょ?だったら全然OK!むしろ、彼にとっては嬉しいことだと思うよ!」


「嬉しい……のか?」


「うん。彼、いつも言ってるの。“住人との距離を感じる……”って。

街を歩いてても、みんなが距離を取るからね。

彼自身はもっと普通に話したいのに、相手は“重鎮の子息”ってことで構えちゃうんだよ。 だから、君みたいに自然に接してくれる人がいるの、たぶん嬉しいと思う。」


「そ、そっか……」


少し胸の奥が温かくなった。

権力のある家に生まれたからといって、必ずしも幸福とは限らないのかもしれない。


「なんか……偉い人には偉い人の苦しみがあるんだね。」


ミアはにっこりと笑い、軽く肩をすくめた。


「でしょ? だから気にしすぎないでいいよ。あの人、そういう“普通”を求めてるんだから。」


彼女の言葉を聞きながら、俺はふとダリウスの微笑を思い出した。

あの柔らかい笑顔の奥には、責任と孤独が混ざっていたのかもしれないな。


「あと、一つ気になったんだけど……君の世界ってさ、貴族の人にタメ口で話しかけたら殺される感じ?」


唐突なミアの問いに、思わず変な声が出そうになった。


「うーん……俺のいた国の二百年くらい前は、まぁ、そんな感じだったらしいな。」


「え?修羅の国か何かなの?」


「そこまで物騒じゃないよ。今はそもそも“貴族”って存在がいないから、正直わからない。」


「へぇ〜!貴族がいない世界かぁ。よくそれで国家が回ってるね。ウチらの世界じゃちょっと想像できないかも。」


ミアは感心したように首を傾げ、黄金色の瞳をキラキラと輝かせた。

まるで新しい玩具を見つけた子どものように、好奇心でいっぱいだ。


「まぁ、俺の国も、貴族とか貴族相当の人間が政治をしていた時代の方が長いけどな。」


「なるほどね〜。だったら、ウチらの国もいつかそうなるのかな。でも、“貴族がいない”って響きはなんか新鮮!」


ミアは腕を組んで一人うんうんと頷きながら、突然「あっ」と指を立てた。


「そうだ、ひとつ忠告!ダリウスはタメ口で全然OKだけど、他の貴族とか重鎮の人たちはそうはいかないかも!」


「……嫌がるってこと?」


「うーん。“首が飛ぶ”ことはまずないけど、“身分をわきまえない態度”ってことで、下手したら“侮辱罪”とかで捕まるかもね!」


「……捕まるのかよ。」


「貴族社会って、けっこうそういうの細かいんだよ〜。だから、できるだけ敬語で話す方が無難! ダリウスみたいに“距離を感じる……”とか言い出すタイプは、むしろ珍しいから!」


「了解。善処する。」


「よし、それでよし!」


ミアは満足げに頷くと、にかっと笑った。

その明るさに、少しだけ肩の力が抜ける。


「――さぁ、二人とも、行くよ。」


イリスの静かな声が響く。

扉が開き、異世界の風が頬を撫でた。

こうして、俺はこの世界での“第一歩”を踏み出した。

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