第2話
実は半年前から、週末になるとよく会う小さな女の子がいた。
名前は、さくらこ――ちゃん。彼女のお母さんが「さくちゃん」と呼んでいるので、自然と僕もさくちゃんと呼ぶようになった。
近所のショッピングモールにて、迷子になっているさくちゃんを、たまたま、僕が声をかけて、さくちゃんのお母さんのところへ送り届けたのだ。
届けて立ち去るつもりだったのだけど、さくちゃんは僕の手を引き、「あそぼー」と言ってきた。当時は不登校真っ盛りだったのだけど、天使のような三歳の笑顔でお願いされたらさすがに根暗な僕でも無下にはできなかった。
……よかった、最低限の人間レベルを当時の僕はちゃんと持っていたことになる。そこで立ち去っていたら、さくちゃんを傷つけてしまっていただろう。
もしかしたら引きこもっていたかもしれない。そうならなかったのはよかったし、こうして懐いてくれるさくちゃんを見ていると、僕の判断は間違ってなかったのだと思う――。
「にぃに」
「あー、さくちゃん? 学校で会うなんて偶然だね」
偶然? いいや、必然だっただろう――さくちゃんのことは見て分かることしか分かっていなかった。そう言えばさくちゃんのお母さんの、名字までは聞いていなかったし、僕の母とさくちゃん母の井戸端会議に、僕は参加していなかった。
というか、母同士でお茶をするために、さくちゃんの面倒を僕が見ていたわけでもある。……そう言えば、反抗期のお姉さんがいるとは聞いていた。
それがまさか、彼女だとは思わなかった――――
猪原りんこ。
僕をいじめるクラスメイト女子の妹に、懐かれていたらしい。
「久しぶり、たいと君……ってわけでもないよね、だってこの前の日曜日にいつものところで会ってるし」
「はい……、ですね」
「また不登校になっちゃった、って、聞かない方がいい? でもこうして学校にこれてるから、改善はしてるのかな?」
大人の目があるから登校しやすかったんです、とは言いづらいな。さくちゃん母に事情を説明しなければならなくなるし(この人、気になると流してくれないのだ)、そうなるとさくちゃん母に、猪原りんこのことを話すことになる。
……それ自体はざあまみろではあるのだけど、さくちゃん母とさくちゃんに、お姉さんの嫌な部分を見せることになるわけで……。
猪原りんこを攻撃すると同時に、ふたりのことも攻撃してしまうことになる。それは避けたかった。
毎週会っている知り合いを巻き込みたくない。
これは、僕がいじめられているだけの話なのだから。
「にぃに、だっこ」
「えっと……」
少し躊躇ったら、さくちゃんが悲しい顔をした。ごめんごめんっ、とすぐにさくちゃんをだっこして、膝の上に乗せる。
参観日なのだから小さい子が教室にいることだってある――まあ、今日はさくちゃんだけ、なのだけど。教室では耳慣れない三歳児の高い声に、僕は注目の的だった。
「にぃに、にぃに」
「ん? ノート? お絵描きする?」
ペンを渡すとノートの白紙に絵を描き始めたさくちゃん。
キリンさんゾウさん、と、ライオンさんかな? そして馬にまたがるさくちゃん自身、なのかな……が、描かれていた。四つん這いになっているのは僕なの?
姉妹揃って、僕のことは下に見ているってことかな?
「できた」
「上手だね」
振り向いたさくちゃんが、にぃー、と笑った。毎週、日曜日に見られる癒しだった。今週はいつも以上に見られるってことだ。
……不意を突かれたけど、この子を見たら嫌なことが全部吹き飛んだ。
「にぃにも」
「も? 僕も描くの?」
ノートの余白を埋めろってことかな。一応、提出用のノートなのだけど……まあいいか、さくちゃんが描いた絵なら先生だって怒らないだろうし。
「――楽しいの? さく」
「あ、ねぇね」
と。
悩んだ末に声をかけることにしたようで、引きつった笑みで近づいてきたのはさくちゃん姉の――猪原りんこだった。
「あらアンタ、ちゃんと授業出てるなんて意外ね。サボってると思ってたわ」
「はあ? じゃあなんで参観日に学校きたんだっつの、お母さん――」
剣呑だけど、いつものやり取りのようで、さくちゃんも気にしていなかった。
「そんなの、たいと君のことを見にきたのよ」
「え、僕ですか?」
「どうしてっ、コイツと仲が良いんだよ!!」
あ、やっぱり知らなかったんだ……。
「日曜日、ショッピングモールでよく会うのよ。さくちゃんが懐いてるから仲良くなってね……たいと君のお母さんとはメチャ友達なの」
最近、お母さんが若作りし始めた、と思ったら、さくちゃん母の入れ知恵だったわけだ。
いいんだけどね、若作り。出かける準備に時間がかかるようになったのは痛いけど。
「アンタ……」
ひっ。猪原りんこが睨んできたので、さくちゃんを盾に顔を隠す。
外道と言われようが使えるものは使ってやるんだ!
「ねぇね、にぃにのこと、きらい?」
「う。……別に、嫌いじゃないし」
「ほんと?」
「本当だよ」
すると、さくちゃんが体勢を変え、僕と向き合う形に。
さらに僕の首に腕を回して抱き着いてきた。おっと、と、落とさないように僕もさくちゃんを支えて……、意図しない内にふたりで抱き合っているみたいになった。
小さな子を支えてるだけなのに……いけないことをしているみたいだ。
「あ、アンタ……ッ、さくを、そんな風にぎゅっとしやがって……ッ!」
「さ、支えてるだけだから! ほら、さくちゃんのこと、渡すからさ――」
妹を奪われて嫉妬してる、ように見える猪原りんこへ、さくちゃんを受け渡そうとしたけど、立ち上がった僕と同時、さくちゃんが耳元で「やっ」と拒絶した。
「ねぇね、やっ!」
「え、」
両手を出していた姉が固まっていた。……はっきりと、「嫌」と言われたわけで……僕とは比べものにならないショックを受けただろうなあ。
「にぃにがいい」
さらに、
「にぃに、すき」
「…………、新井ぃ」
「いや待ってよ、さくちゃんが言ったことだよね!?」
その後、さくちゃんが離れてくれなかったので、そのまま授業を受けることになった。
さくちゃんは騒ぐことなく、というか途中から僕の腕の中で眠ってしまい、だけど離してはくれなかったので、小さな子を抱えるだけの時間になった。
でもいいのだ、寝顔を見られただけで充分に満たされている。
胸の制服をちょこんと掴む仕草と、弱いその力に、元気が出てくる。
勇気だって湧いてきた。いじめられて不登校になって逃げるなんて……もうやめる。
「……さくちゃん、力を貸して」
もう充分、貰っているけど……ここが踏ん張り時だ。
敵の大将を討つために、僕は……。
「さくちゃんこそが、猪原りんこの弱点だ」
・・・つづく
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