第七章 ― 世界を紡ぐ者 ―

雨が上がった朝、結人は一人、星渡書店の前に立っていた。

昨日まで灰色に見えていた空が、今日はやけに澄んで見える。

心の奥にあった重たい靄が、ようやく晴れていくような気がした。


――灯は、いない。

けれど、消えたわけではない。

彼女は確かに「生きる意味」を見つけ、この世界のどこかで“物語”として生きている。


結人はドアに手をかけ、ゆっくりと押し開いた。


チリン――。

懐かしい鈴の音が鳴り、温かな風が頬を撫でた。


「おや、また来てくれたんだね。」


カウンターの奥に、いつもの“店主”がいた。

白い手袋に、薄い笑み。けれどその瞳の奥には、どこか哀しみのような優しさが宿っていた。


「……話を、聞かせてください。俺たちは――何だったんですか?」


店主は一瞬だけ目を伏せ、そして棚の上の古い書を手に取った。

その表紙には、かすれた金の文字でこう書かれている。


『世界を紡ぐ者たち』


「この本屋はね、結人。“物語を失った人”たちを導くために存在している。」


「導く……?」


「そう。生きる意味を見失った者たちは、やがて自分の物語の続きを書けなくなる。そんなとき、この店は“読者”としての魂を呼び寄せ、彼らに新たな章を見せるんだ。」


結人は言葉を失った。

「じゃあ、俺たちは……導かれた側だったんですね。」


店主は微笑んだ。

「初めはそうだ。けれど、君たちは“特別”だった。灯は、本を読むことで世界を照らした。そして君は、その光を“形にする力”を持っていた。」


結人は無意識に胸元の栞を握りしめた。

「……これが、鍵なんですね。」


店主は頷く。

「星渡書店は、次の“紡ぎ手”を待っていた。この店を守る者――“世界の物語”をつなぐ者を。」


結人はゆっくりと息を吸った。

「それが……俺?」

「そうだ。君がこの店の新しい“司書”になる。」


言葉が静かに胸へ染み込んでいく。

現実と夢の境界が溶けていくようだった。


「……灯は、俺にこれを託したんだな。」

「そう。彼女は“書く者”として物語に残り、 君は“読む者”として、この世界を紡ぐ。」


結人はふと、棚の隅に並ぶ本たちを見た。

それぞれが微かに光を帯びている。

ひとつひとつが誰かの“心”であり、人生の記録だ。


「俺たちは、ただの登場人物だったのかもしれない。でも――それでも、生きていたんですね。」


「その通りだ。物語の中で生きることも、現実で息をすることも、同じ“存在”の形なんだ。」


店主はカウンターの奥から、黒い鍵を差し出した。

「この鍵を受け取りなさい。今日からこの店は、君の書店だ。」


結人は震える指でそれを受け取った。

手の中に重みが宿る。

過去、喪失、痛み――すべてを抱えたまま、前へ進む力がそこにあった。


その夜、結人はカウンターに灯りをともした。

小さなオイルランプがページを照らす。

そして、棚から一冊の新しいノートを取り出す。


表紙には、まだ何も書かれていない。

彼はゆっくりとペンを走らせた。


『星渡書店日誌』

第一章 ――灯を探す旅の終わりに。


ページの隅には、小さく文字が浮かび上がる。

それはまるで、誰かの声のように――


「お兄ちゃん。今日も、いい一日を。」


結人は微笑んだ。

「……ああ、灯。おやすみ。」


店の外では、無数の星が静かに瞬いていた。

その光が、まるで開かれた本の文字のように夜空を埋め尽くしている。


やがて、扉の鈴が鳴った。

チリン――。


小さな少女が立っていた。

涙で濡れた頬、抱えたノート。

「……あの、本を探しているんです。」


結人は優しく笑い、カウンターの奥から問いかけた。


「どんな本かな?」

少女は小さな声で答える。

「“もう一度、生きたい”って思える本です。」


結人はうなずき、一冊の古い本を差し出した。

銀の月が描かれた表紙――『星渡書店へようこそ』。


少女がその本を抱きしめた瞬間、

ページの間から光が零れ、彼女の瞳に涙と笑顔が混ざった。


――こうして今日も、新しい物語が始まる。

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