第六章 ― 灯を探す旅 ―

その夜、星渡書店にはいつもより濃い静けさが漂っていた。

外では小雨が降り、アスファルトを叩く音が、時の流れを刻んでいるようだった。


結人はカウンターの奥で、灯が読みかけていた本を手に取った。

タイトルは『白紙の世界』。

真っ白な表紙に、文字は一つもない。


――それでも、灯は楽しそうにこの本を抱えて帰った。

まるで、これから始まる物語を自分で書くように。


だが、その夜を境に――灯は、姿を消した。


翌朝。

灯のベッドは、まるで誰もいなかったように整っていた。

窓は閉まっている。靴もそのまま。

だが机の上に、一枚の栞が置かれていた。


銀色の栞。そこには新たな文字が刻まれていた。


「彼女は、まだ“物語の途中”にいる。」


結人の胸が冷たく締めつけられる。

「……灯。」


気づけば、体が勝手に動いていた。

結人はあの本を抱え、傘も持たずに外へ飛び出した。

雨の匂いの中、星渡書店の扉を乱暴に開ける。


「――店長!」


店内は薄暗く、ランプの明かりだけが揺れていた。

奥の棚から、ゆっくりとあの声が聞こえる。


「来ると思っていたよ、結人。」


店主――いや、あの“司書”がそこに立っていた。

白い手袋をはめ、本を一冊手にしている。


「灯をどこにやった。」

「……彼女は自ら“本の世界”を選んだんだよ。」

「そんなわけあるか!」


結人は拳を握りしめる。

「どうして俺を置いていく……どうして……!」


司書はゆっくりと視線を落とした。

「彼女は君を守ろうとした。この本の中で、君が“悲しみを忘れる”ことを望んでいた。」


「悲しみを……忘れる?」

「そうだ。だが、彼女は忘れることができなかった。君を、家族を、過去を――そして“物語”を。」


司書は本を結人の前に差し出した。

「この本を開けば、彼女に会える。」


結人は躊躇なくその本を受け取る。

「……行くよ。」

「行けば、戻れないかもしれない。」

「構わない。灯を一人にはしない。」


司書は微笑んだ。

「それが、君の“生きる意味”なのだね。」


その言葉と同時に、本のページが風を巻き起こすように開いた。

眩しい光が溢れ、世界が白に染まる。


――気づくと、結人は砂の上に立っていた。


空は灰色。地平線は霞み、どこまでも静寂が広がっている。

目の前には、巨大な白い扉があった。

その扉には、あの栞と同じ文様――“月”の刻印がある。


「……灯。」


結人は歩き出す。

足跡が砂に沈み、そのたびに“文字”が生まれる。

「風」「記憶」「約束」――。


――この世界そのものが“言葉”でできている。


扉を押し開けると、そこは見たこともない景色だった。

空に本が浮かび、川はインクでできている。

遠くに見える丘には、灯の姿があった。


「灯っ!」


結人が駆け出す。

けれど、何かが彼を阻む。

無数の“黒い文字”――過去の記憶たちが、結人の足元から這い上がる。


「君はもう、進めない。」


耳元で、誰かの声が囁く。

それは結人自身の声だった。

「お前はあの日、救えなかった。家族を、妹を、何もかも。」


「違う……!」

結人は叫んだ。

「俺は、もう逃げない!」


手に持った栞が光を放つ。

その光が黒い文字を切り裂き、闇を払いのける。


丘の上で、灯がこちらを見ている。

風に髪を揺らし、静かに微笑んでいた。


「お兄ちゃん……来てくれたんだね。」

「当たり前だろ。迎えに来た。」

灯は涙を浮かべながら首を振る。

「だめだよ。私はこの世界の“登場人物”になっちゃったの。本を閉じたら、私は――消えちゃう。」


結人は迷いなく彼女の手を握る。

「消えてもいい。お前が俺の中に残るなら、それでいい。」


灯の瞳に光が戻る。

「……ありがとう。やっと、思い出した。」


その瞬間、世界が金色の光に包まれる。

本が閉じ、風が止まり、全てが静かになった。


――目を開けると、そこはいつもの部屋だった。

雨は上がり、朝日が差し込んでいる。

机の上には、閉じたままの『白紙の世界』。


ページをめくると、一枚だけ言葉が書かれていた。


「生きる意味は、誰かと“物語”を分け合うこと。」


結人は静かに笑った。

「……灯、ありがとう。」


外の空には、昨日よりも鮮やかな虹がかかっていた。

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