花畑の少女


「……?」


 僕の姿を認めた少女はきょとんと不思議そうに首を傾げる。

 ダンジョンの中にいる緊張感なんてのは微塵もなく、まるで家でくつろぐかのように花畑に足を投げ、白い猫の顎を撫でつけていた。


「えっと……君は? ここで何をしてるの?」


「わたしはリリィ。おにいさんは?」


 少女の大きくつぶらな瞳が僕を捉えた。潤った唇から発される言葉は心地よくて、天上の歌を聞いているような気持になった。


「僕はフォール」


「フォールはこんなところで何してるの?」


「僕は上から落ちてきたんだ」


「フォール、天使みたいだね」


「て、天使……?」


「うん。お空から落ちてくるなんて天使みたい。神様に逆らった天使は、神様に怒られて地獄に堕ちるの」


「……僕は人間だよ」


「わぁ! フォール、人間なの?」


 リリィは喜色を顔に浮かべ、跳ねるように立ち上がる。膝に乗っていた猫は驚いてどこかへ走り去ってしまった。


「君は……人間じゃないの?」


 彼女は答えなかった。ただにこりと笑顔を浮かべ、首を傾げるのみ。


「ねぇ、フォール。私と遊んでよ」


 魅力的な提案だと思った。この楽園のような場所で、リリィと遊んで暮らすことができたなら、それはどんなに幸せなのだろう。

 たとえここが、ダンジョンの最奥にほど近い場所であっても……。


 そこまで考えて、はたと我に返る。ここに留まるのが幸せ……? そんなはずないのは分かっているはずなのに、僕は地上に帰りたいはずなのに。この目に彼女の姿が映るたびに、その気持ちが揺さぶられているのを感じる。


「……フォール?」


 小首をかしげたリリィは一歩こちらへ寄って、僕の顔を下からのぞき込んでくる。甘ったるい香りが僕の鼻腔をくすぐる。ぐらり、視界が揺れた気がした。


 リリィと目が合う。潤んだ赤い瞳が僕の目を見返してくる。心臓が跳ねあがるのを感じた。どくん、どくん、と破裂しそうなくらいに鼓動が強くなる。

 リリィの手が僕の頬に触れた。彼女の小さく柔らかい手が触れた場所が、熱を持つのが分かる。


「私とあ・そ・ぼ?」


 リリィの顔が近づいてくる。金縛りに遭ったように体は動かなくて、彼女を、彼女の提案を受け入れる以外の選択肢が僕の脳内から排斥されてゆく。


 リリィの胸元が目に入る。白いワンピースを押し上げる双丘は、彼女の華奢な体に似合わず存在感を放っていた。僕の手は彼女の胸の手の方へと吸い寄せられてゆく。


 妖艶な笑みを浮かべた少女は、僕の太ももを撫でる。悪寒にも似た何かがぞくりと背筋を駆ける。


「私、人間大好きなんだ。だって──とっても美味しいから」


 口と口が軽く触れる。沸騰しそうな脳は、もはや彼女が何を言っているかを認識できていない。


「じゃあ、いただきます」


 微かな虚脱感。触れあっている所から、何かが吸い取られてゆく感覚。

 

「な……にを」


 リリィは何も言わない。ただ、恍惚の表情で僕の顔を撫でる。その度に僕の中から何かが抜き出されていくのが分かる。微々たる量だけど、確実に。


「なかなか、生気に溢れてるわね……吸っても吸っても出てくる……」


「サキュ……バス」


「ご名答♡ 私はリリィ・エインドブラッド。最強のサキュバス。私の魅了は誰にも抗えない。折角の久しぶりの人間ごちそうだもの。逃がさないわ」


 美しい。リリィのすべてが愛おしい。

 手に触れる彼女の手は温かくて、僕の心に安らぎをもたらしてくれた。彼女のためなら、何だってしてあげたい。


 思考が蕩ける。僕の思考の中心にはリリィが居た。この場所で彼女と共にいられることが幸せで、彼女の一部になることができることが嬉しかった。


「もうお腹いっぱいなのだけど……。どれだけあるの?」


 ──大丈夫か、坊主。


 頭に声が木霊した。

 あの時の憧憬。夢見続けた到達点。それが、塗り替えられてゆく。そのことに対する怒りさえも、リリィへの慕情が上回って、染め上げて、蹂躙してゆく。

 今は、ただ彼女が愛おしかった。


「うっぷ」


「どうして逃げるの……? リリィ」


 どうして僕から離れるの……? 僕は君をこんなにも愛してるのに。

 どうして僕から逃げるの……? 僕は君を守りたいだけなのに。


「どうして……? リリィ」


「ひっ。 来っ、来ないで……」


 遠ざかってゆくリリィ、その足取りは地面に縫い付けられたかのように重く顔色は悪い。


「体調が悪いの……?」


「誰のせいだと思って……! うぇっ」


 何か悪いものでも食べたのだろう。僕が今作ってあげられるのは……。

 思い起こし、自分の懐にはドラゴン肉しかない事に思い至る。


「ごめん……ドラゴンの肉しかもってない」


「……ドラゴン? 何を言っているの?」


「滋養に効くと思って……」


「要らないぃ……やだ、来ないでぇ」


 尻もちをついて後ろへとじりじりと下がってゆくリリィ。その姿を見て、ふと、あの時の僕みたいだ、と思った。

 

 ──俺は、冒険者だ。


 声が響く。

 僕が憧れていたのは……。人を助ける冒険者じゃなかったのか?

 こんなところで油を売っている暇があるのか……?

 

 思考が次第に晴れてゆく。

 どうして……。


「なんで──僕はリリィを好きになったんだろう」


『スキル【適応】が発動。【魅了耐性EX】を獲得。』


 晴れた。


 思考の曇りがなくなった。

 視界が広がった。足元の花畑が、光の粒子になって消えていく。そこに現れたのは、五十階層と同じような、硬い岩の地面。


「リリィ、あの花畑は……君が作っていたんだね」


「だ……だったらなんだっていうのよ! そうよ、あの花畑も全部魅了で作った幻惑よ!」


「いや……ただ、綺麗だったなって」


 僕は恥ずかしさに頭を掻きながら、そう答えた。それが本心だし、それ以外の感想はなかった。


「……は?」


「いや、あの花畑綺麗だったなって」


「何を言ってるの? 私はあなたを殺そうとしていたのよ? 【魅了】を使って、生気を吸って、言葉の通り食い物にして。どうしてそれを怒らないの!」


 何故かリリィが僕に怒っていた。顔を真っ赤にして、涙を流して、説教していた。


「だって、僕死んでないし……? そこまで怒ることなのかなって」


「はぁ? 死んでないから良いだぁ? いい? 私はあなたを殺す気でいたの、殺意を持っていたの。それは死ぬ死なないの問題じゃないでしょ!」


「リリィは、僕に怒って欲しいの?」


「違う! 違う……けど、違わない! 怒らないで!」


「じゃあ、いいや」


 僕は、硬い地面に座り込んでいる彼女に手を伸ばした。へたり込んでいる彼女を見ると、手を差し出さずにはいられなかった。


「何、してるの?」


「見てわからない?」


「わかるわけないでしょ! なんで、私に手を差し出して……訳がわからない」


「困ってる女の子に手を差し出すのは、そんなにおかしなことかな……?」


「それは、おかしくない。でも、私はサキュバス、貴方を殺そうとしていたサキュバスなの!」


「……強情だなぁ」


「強情なのはあんたでしょうが!」


 怒りにほのかに顔を赤くしたリリィは、先ほどの気弱さが嘘だったかのように勢いよく立ち上がり、こちらに詰め寄ってくる。


 一体何に怒っているのかは、全くわからないけど。


「せっかくこうして言葉が通じるんだから、命のやり取り以外の道を探したいんだ」


「分からない。フォールの言葉が本当なのか……心からのものなのか」


「嘘なんてつかないよ」


「違う。それがあなたの本心かどうかが分からないってるの!」


「……? 何が違うの?」


「違う……違うのっ! 私はきっと、あなたの……フォールの気持ちを捻じ曲げてしまってる!」


 冷たい岩の広間に立ちすくむ少女は、涙ながらに訴えかけてきた。

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