第10話 沈黙の朝
朝は、いつも通りに来た。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込む。
慎一は、その明るさに少しだけ目を細めてから、天井を見た。
——生きている。
昨夜の記憶は、夢みたいに遠い。
けれど、胸の奥に残る温度だけは、嘘じゃなかった。
キッチンから、音がする。
由紀が、朝食を作っている。
包丁の音が、規則正しい。
慎一は起き上がり、顔を洗って、テーブルに座る。
二人のあいだに、特別な言葉はない。
「……今日、仕事」
由紀が、湯気の立つ味噌汁を置きながら言う。
慎一は首を振る。
「休む」
理由は言わない。
由紀も、聞かない。
それが、今の二人の距離だった。
「そう」
それだけ言って、由紀は自分の椅子に座る。
視線は合わない。
でも、逃げてもいない。
慎一は、箸を持つ手が少し震えるのを感じた。
——昨夜、死にたいと思ったこと。
——直人に、抱きしめられたこと。
どちらも、ここでは言えない。
スマホが、テーブルの上で沈黙している。
通知は、ない。
直人からも、何も来ていない。
それが、彼の誠実さだと、慎一はわかっていた。
越えた線の向こうで、待つことをしない男。
食事を終え、由紀が立ち上がる。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
ドアが閉まる音。
家の中が、急に広くなる。
慎一は、しばらくその場に座ったまま動かなかった。
スマホを手に取る。
連絡帳を開く。
——直人。
名前を見ただけで、
昨夜の腕の感触が、鮮明に蘇る。
打ちかけて、消して。
また打って、消して。
最後に、短い一文だけを残す。
『ありがとう』
送信は、しない。
でも、消さない。
慎一はスマホを伏せ、深く息を吐いた。
外では、いつもと同じ朝が流れている。
誰も、昨夜のことを知らない。
それでも慎一は、
もう一度、ちゃんと生きるほうを選んだ。
誰のためでもなく。
逃げるためでもなく。
——名前を呼ばれた場所から、戻るために。
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