第9話 名前
会議室の空気が、やけに薄かった。
慎一は、誰かが何かを言っているのを聞いていたはずなのに、
言葉が頭に入ってこない。
資料の文字が、滲んで重なる。
——もう、無理だ。
そう思った瞬間、
不思議なくらい体が軽くなった。
トイレに立つふりをして、
会社から外に出ていた。
どれだけ歩いたのか分からずただ目に入ってきたビルのエレベーターに気づけば乗っていた。
押した階数は、覚えていない。
屋上の扉は、簡単に開いた。
風が強くて、
自分がまだ生きていることだけが、やけにリアルだった。
手すりの向こうを見て、
慎一は初めて、はっきりと思った。
——死にたい。
怖いとか、悲しいとかじゃない。
終わらせたいという感覚だけが、そこにあった。
スマホが震える。
着信じゃない。
ただ、握っていただけだ。
慎一は、屋上の手すりにもたれてスマホを見つめていた。
連絡先を開いて、迷わず名前を押す。
——直人。
『今どこ』
送信してから、後悔が遅れてくる。
でも、取り消す前に返事が来た。
『今どこ』
慎一は、場所を書かなかった。
『風が強い』
それだけ。
数秒、既読がつかない。
その沈黙のあいだに、
慎一は
「やっぱり言うべきじゃなかった」
と思いかけて——
既読。
直人からの返事は、短かった。
『動くな』
慎一の指が止まる。
——どうして。
場所なんて、言ってない。
その答えを考えるより先に、
直人の次のメッセージが届く。
『そこ、前も行っただろ』
慎一の喉が、ひくりと鳴る。
忘れていたつもりだった。
忘れたことにしていただけだった。
仕事で限界だった夜。
何も言えず、
ただ高いところに逃げた夜。
——迎えに来たのは、あの時も直人だった。
『いいから、動くな』
画面の文字が、滲む。
屋上の床は冷たくて、
慎一はその場に座り込む。
背中を丸めて、
子どもみたいに小さくなる。
涙が出る理由も、
止まらない理由も、わからなかった。
——来ないかもしれない。
そう思った瞬間、
屋上の扉が、乱暴に開いた。
息を切らした直人が立っている。
スーツのまま。
ネクタイも緩めないまま。
「……っ」
慎一の姿を見た瞬間、
直人の顔が、歪んだ。
走り寄る。
何も言わずに、しゃがみ込む。
「……ばか」
声が震えている。
直人は、考えなかった。
線も、理屈も、全部置いてきた。
慎一を、抱きしめる。
初めてだった。
慎一の体は、驚くほど軽くて、
それでいて、壊れそうなくらい硬かった。
「……直人」
名前を呼んだ瞬間、
慎一は堪えきれなくなって、
直人の胸に顔を埋める。
「……もう、無理……」
声にならない声。
慎一は、すがりつく。
子どもみたいに、必死に。
直人は、強くは抱き返さない。
逃げない程度に、
でも、離れない力で抱く。
「ここにいろ」
それだけ言う。
「今日は、俺が離さない」
慎一の肩が、大きく揺れる。
泣き声が、風に消えていく。
屋上には、二人だけ。
空は、まだ暗い。
でも、慎一は
もう、手すりを見ていなかった。
直人の腕だけが、
現実だった。
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