第8話 距離
慎一がシャワーを浴びている間、
由紀はソファに座ったまま、テレビもつけずに待っていた。
水音が、やけに遠い。
「……ねえ」
ドア越しに声をかける。
「今日も遅かったの?」
「うん。ちょっと立て込んでて」
いつもと同じ答え。
嘘かどうかは、もうどうでもいい。
同じ言葉が、同じ距離を作ることのほうが、ずっと怖い。
慎一が出てきて、タオルで髪を拭きながら言う。
「先、寝てていいよ」
その一言で、由紀は確信してしまう。
——今日も、触れない。
「……いつからだと思う?」
慎一の手が止まる。
「私たち、こんな感じになったの」
責める声じゃない。
確認するみたいな声。
「疲れてるんだよ、今。仕事がさ」
慎一はそう言って、目を逸らす。
その言葉を、由紀は何度も飲み込んできた。
「疲れてるのは、わかってる」
少し間を置いてから、続ける。
「でもね。
疲れてるって理由、もう何ヶ月も聞いてる」
慎一は黙る。
反論しない。
「……女として見られてないのかなって」
言った瞬間、胸が痛む。
こんな言い方、したくなかった。
「違う」
即答だった。
「違うけど……余裕がない」
由紀は、笑ってしまいそうになる。
「余裕がないのは、
私を抱かない理由にはなるけど、
私が一人で疑う理由には、十分なの」
慎一の眉が、わずかに寄る。
「誰か、いるの?」
ついに出てしまった言葉。
慎一は首を振る。
「いない」
迷いはない。
だからこそ、由紀は別のところを見る。
「……そう」
でも、続けてしまう。
「じゃあ、
あなたの心は、どこに行ってるの?」
慎一は答えない。
その沈黙に、由紀はすべてを感じ取ってしまう。
——人じゃないかもしれない。
——でも、ここにはいない。
「ねえ慎一」
声が少しだけ震える。
「“友達”って言葉、最近よく使うよね」
慎一が、ぴくりと反応する。
「仕事の人。昔の知り合い。
全部“友達”」
由紀は自分の指先を見る。
「その言葉を使うたびに、
あなた、少し遠くを見るの。気づいてた?」
慎一は何も言えない。
「浮気してるって、決めつけたいわけじゃない」
由紀は立ち上がる。
「でもね。
触れない夜が続くと、
女は、想像するしかなくなるの」
慎一の喉が鳴る。
「……ごめん」
それは謝罪だった。
説明じゃなかった。
由紀は、その違いに気づいてしまう。
「私ね」
一歩、距離を詰める。
「あなたが壊れそうなの、わかってる」
だから余計に、苦しい。
「でも、
私の前から心がいなくなるなら……
ちゃんと、教えて」
慎一は、何も答えない。
由紀はそれ以上聞かず、寝室へ向かう。
ドアが閉まる前、
一度だけ振り返る。
そこにいるのは、
仕事に疲れた夫なのか、
どこか別の夜に立っている男なのか。
由紀には、もうわからなかった。
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