第5話 言葉


その日も慎一は、いつもと同じように靴を脱ぎながら言った。

「今日は、友達と少し話してただけ」

由紀は、キッチンで手を止めたまま、その言葉を聞く。

――まただ、と思う。

友達。

便利で、角が立たなくて、

それ以上踏み込まれないための言葉。

(そんな顔で言う言葉だった?)

慎一の声は落ち着いている。

服装も乱れていない。

香水の匂いもしない。

それなのに、由紀にはわかる。

この人は、全部を持ち帰っていない。

体じゃない。

時間でもない。

心だ。

由紀は振り返る。

「その“友達”ってさ……

 あなたが、何も言わなくても迎えに来てくれる人?」

慎一が、一拍だけ黙る。

その沈黙で、由紀は理解する。

(ああ、この人は

 たまに、行ってしまうんだ)

浮気じゃない。

裏切りでもない。

ただ、心が――

ここじゃない場所で、息をしている。

「不思議なの」

由紀は責める声を選ばない。

「あなた、“友達”って言うたびに、

 少し遠くを見るでしょう」

慎一は否定しようとして、言葉を探して、やめる。

その仕草が、答えだった。

由紀は続ける。

「ねえ、慎一。

 その人といる時、

 私といる時より、楽そうな顔してない?」

問いは鋭いのに、声は静かだった。

由紀自身、もう泣く段階を過ぎている。

(私が欲しいのは、謝罪じゃない)

(選ばれたいだけ)

慎一は小さく息を吐いて言う。

「……ただの、友達だよ」

その瞬間、由紀の中で何かが静かに崩れる。

(ほら、また)

“ただの友達”。

その言葉が出るたび、

自分が、後回しにされる感覚。

由紀は一度だけ目を伏せ、

それから顔を上げた。

「じゃあ、どうして」

声は、少しだけ低くなる。

「私じゃない場所で、

 あなたは救われてるの?」

慎一は、何も言えなかった。

沈黙は、もう守るものじゃなかった。


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