第4話 違和感


由紀は、慎一の帰宅時間を正確に覚えているわけじゃない。

でも、遅れ方の種類だけは、わかるようになっていた。

仕事で遅い夜。

飲み会で遅い夜。

どれとも違う、

説明が要らないはずの遅れ。

その夜も、慎一は事前に何も言わなかった。

由紀は時計を見て、

それからスマートフォンを伏せる。

(聞かない)

聞けば、答えは返ってくる。

「少し話してただけ」

「友達と」

いつもと同じ言葉。

同じ顔。

だから、聞かない。

鍵の音がして、

慎一が入ってくる。

「ただいま」

「おかえり」

それだけで会話は成立する。

成立してしまう。

由紀はソファに座ったまま、

慎一の様子を視界の端で追う。

ネクタイを外す仕草。

靴を揃える癖。

全部、いつも通り。

なのに、

何かだけが、ここにない。

(まただ)

由紀は、心の中でそう呟く。

慎一は、体を置いてきたわけじゃない。

時間を置いてきたわけでもない。

気持ちを、少しだけ外に置いてきた。

その重さが、由紀にはわかる。

「今日、寒かったね」

由紀が言うと、

慎一は少し遅れて頷く。

「ああ、そうだな」

その一拍が、

由紀の胸に引っかかる。

(今、ここに戻ってきた)

まるで、

別の場所から呼び戻されたみたいに。

由紀は、慎一の横顔を見る。

誰かと話したあとの顔だ。

疲れているのに、

少しだけ軽い。

(私といる時より、

 楽な顔をしてる)

その考えが浮かんだ瞬間、

由紀は自分を責める。

(違う。疑う理由なんてない)

浮気じゃない。

香りも、痕跡も、嘘もない。

でも――

心は、見えないからこそ確実だった。

由紀は、慎一がコップに水を注ぐ音を聞きながら思う。

(この人は、

 私の知らない場所で、

 救われている)

それが、いちばんつらい。

慎一が戻ってきて、

ちゃんとここに座って、

ちゃんと生活を続けているのに。

自分じゃない誰かが、

 彼の息を整えている。

由紀は、

怒りより先に、理解してしまった。

(ああ……

 これは、壊れているんじゃない)

(最初から、

 私が知らない形で、

 成り立ってた関係なんだ)

慎一が、ふいに言う。

「……なんか、疲れたな」

由紀は微笑む。

「お風呂、先に入る?」

慎一は頷く。

そのやり取りが、

あまりにも穏やかで、

由紀は少しだけ目を伏せる。

(この人は、

 悪くない)

(でも、

 私は、選ばれていない)

由紀はその事実を、

まだ言葉にしない。

ただ、

いつ言うかを決めただけだった。

この沈黙は、

守るためのものじゃない。

壊すために、

静かに温めてる沈黙だ。

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