第3話 選ばない
直人は、慎一からの連絡を見てから、
十分ほど経ってから車を出した。
すぐ行けない理由なんてなかった。
ただ、少しだけ遅らせる癖がついている。
期待しているように見えないための、
小さな保険。
駅のロータリーで慎一を見つけると、
直人はクラクションを鳴らさず、
ただハザードを点けた。
慎一は迷いなく乗り込んでくる。
それが、少しだけ痛い。
エンジンをかける。
ラジオはつけない。
会話も、始めない。
この沈黙は、直人が作ったものだ。
慎一が楽そうにしているのを、
もう何度も見てきた。
(……ずるいよな)
慎一は、何も求めてこない。
励ましも、答えも、好意も。
ただ、そこにいろ、という顔をする。
直人はハンドルを切りながら思う。
――選ばれていない。
それは、ずっと前からわかっている。
慎一は、家を選ぶ。
由紀を選ぶ。
その合間に、夜だけここへ来る。
直人は、
選ばれない側の椅子に、
最初から座っている。
「……悪いな」
慎一が、いつものように言う。
直人は前を見たまま答える。
「別に」
その一言で、
慎一の肩から力が抜けるのがわかる。
(ほらな)
自分は、
慎一を楽にする存在でしかない。
それでも、
この役割を手放す選択肢は、
直人にはなかった。
期待なんて、していない。
――そう思い込もうとしてきた。
「由紀がさ」
慎一が、妻の名前を出す。
その瞬間、
直人の中で、
小さな何かが確実に沈む。
それでも、聞く。
聞かない理由がないから。
「最近、ちょっと冷たくて」
慎一は苦笑する。
その表情が、
直人の胸を少しだけ締めつける。
(その顔、俺に見せるなよ)
直人は、言葉を選ぶ。
選びすぎて、
何も言えなくなる。
「……そう思ってるなら、いいんじゃない」
自分でも驚くほど、
穏やかな声だった。
慎一は安心したように頷く。
その瞬間、
直人ははっきり理解する。
――ああ。
俺は、選ばれなくてもいいんだ。
慎一にとって、
ここは「戻ってくる場所」じゃない。
一度、息を置く場所だ。
それで十分だと、
直人は自分に言い聞かせる。
家の近くで車を停めると、
慎一は振り返って言う。
「ありがとな。助かった」
直人は、少しだけ笑う。
「寝ろよ」
それだけでいい。
慎一が降りていく背中を見ながら、
直人はハンドルから手を離さない。
(期待はしてない)
でも――
迎えに行く夜だけは、
自分が選ばれている気がしてしまう。
その錯覚が、
直人をここに縛りつけていた。
エンジンを切る前、
直人は一度だけ、
連絡帳を開く。
慎一の名前は、
一番上にある。
消せないまま、
画面を伏せた。
この関係が、
いつか終わることを、
直人はもう知っている。
それでも今夜は、
まだ離れなかった。
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