五章 苦難を超えて

1.悟の想い

翌日。放課後の図書室は、いつもより柔らかな光に包まれていた。

 窓から差し込む陽が本棚を照らすと、紙の匂いがふわりと立ちのぼり、それだけでどこか祝福めいて感じられる。


 あかりは机の上に置いたノートを見つめ、頬を赤く染めたまま小さく息をついた。


 (……「好き」なんて……思わず返しちゃった……)


 まだ胸の奥が熱い。

 思い出しただけで指先までくすぐったい。


 そんな彼女の隣に、静かに悟が歩み寄ってきた。

 気配はいつもと同じ。穏やかで、落ち着いていて――けれどどこか、あたたかさが普段より増している。


 「……あかり。今日の図書室、ちょっと、嬉しそうだよ」


 「嬉しそう……?」

首をかしげるあかりとは対照的に、悟は棚の本に軽く触れた。

 その瞬間、ごく弱く、紙が震えたような気がした。


 「うん。なんとなく、だけどね。

  本たちが……君の気持ちに反応してるみたいで」


 あかりはますます頬を赤くする。


 悟は優しく笑った。

 その微笑みの奥に、ほんの少しだけ揺れる影があった。


 ――本当は知っている。

 あかりと道都の気持ちが触れ合ったことを、この図書室が感じ取っていることを。

 それが、この場所に宿る“彼自身”にも伝わってきてしまうことを。


 けれど、この秘密は言えない。


 悟は人ではない。

 書架を満たす物語の「声」として生まれ、図書室と共に在る存在。

 人のように見えて、人ではない。


 その事実を告げれば――あかりをきっと怖がらせてしまう。

 だから悟はいつも優しく微笑むだけで、本当のことは胸にしまったまま。


 「……ねえ、あかり」


 悟が小さく息を整えて言った。


 「僕は……前に、君に気持ちを伝えたよね」


 あかりは驚いたように目を瞬いた。


 悟はそれ以上に静かに、淡々と、けれど丁寧に続けた。


 「でもね、それは……君を困らせたいわけじゃないんだ。

  もしあのまま君が迷ってしまうなら、僕は言わなかったほうがよかったのかなって、少し思ったりもして」


 「そんなこと……」


 あかりが否定しようとしたが、悟はそっと首を振った。


 「大丈夫。

  僕は、君が誰を選んでもいいし、選ばなくてもいい。

  君が望むように笑っていてくれたら……それで十分なんだ」


 その言葉はいつもの悟の調子だった。

 優しくて、寄り添ってくれて、心を押しつぶさない。


 けれど――あかりには見えないところで、悟は胸の奥をぎゅっと抱いていた。


 (僕は……君と並んで歩くことはできないから)


 (未来を一緒に歩くことも、君と同じ時間を生きることもできないから)


 そんな真実は語れない。

 言ってしまえばあかりが怯えるだろうし、悲しませてしまう。

 だから悟はただ、柔らかな声で言葉を重ねる。


 「もし、辛いことがあったら、この場所に来て。

  僕はここで、いつでも君の味方でいるよ。

  君を支えたいって気持ちは、本物だから」


 あかりはその言葉に胸が熱くなる。

 悟の言葉には不思議と、安心をくれる力があった。


 「悟くん……ありがとう」


 「ううん。

  君が幸せそうなら……それだけで、ね」


 悟が棚に触れる。

 本たちがやさしく揺れ、光が一瞬だけ揺らめいた。


 ――それは、図書室に宿る彼の“祝福”。

 あかりの選んだ想いを受け入れる、静かな肯定。


 けれどあかりは、その意味をまだ知らない。

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