吾輩は幽霊である

愛賀 綴

吾輩は幽霊である

 吾輩は幽霊である。名前は忘れた。

 思えばずいぶん長いこと、この空き家に引き籠もっていた。正確な年数はもはや数える気にもならない。

 いつの頃からか、この町の片隅にある古びた洋館が吾輩の場所。

 柱時計の止まった時刻、壁の染み、隅に溜まる埃の匂い、すべてが吾輩の落ち着く空間だった。


 しかし、最近になってどうにも騒がしい。妙に明るい声を出す男が何度も出入りし、見知らぬ者たちを連れてきては「この眺望は素晴らしいでしょう!」「リフォームすれば新築同様です!」などと、吾輩の住処の欠点を打ち消すような言葉を並べ立てて空き家の中を歩き回る。

 煩わしいことこの上ない。

 吾輩は彼らを追い払おうと、お気に入りの作戦を実行に移した。

 階段がきしむ音をわざと立てたり、窓ガラスを揺らしてみたり、冷気を送りつけてゾッとさせてみたり。そして全身全霊を込めた脅しの声だ。「お前たち、出ていけ!」と、低い唸り声で叫んだ。

 だが、誰も振り返らない。

 毎回来る男は陽気な声で「古い家ですからね~、どうしてもこういう音がしちゃうんですよね~」と軽く笑い飛ばすばかり。

 吾輩の声は誰にも聞こえず、姿も見えない。必死で声を張り上げ、目の前で手を振り回しても、彼らは平然と吾輩をすり抜けていく。


 ああ、幽霊とはかくも無力!

 吾輩の存在など最初から存在しないに等しい。

 吾輩は打ちひしがれた。


 やってくる彼らを立ち退かせようと足掻く気力もなくなり、吾輩はこの空き家を出ていくことにした。

 長いこと空き家での単調な生活を続けてきたが、実は吾輩はぼんやりと眺め、町を行き交う人の日々の営みが好きだ。

 笑い声、喧嘩の声、雨の日の傘、子どもたちの鬼ごっこ──。

 吾輩にはないもの。決して手が届かない、色鮮やかな日々。


 ふらふらと町を彷徨っていると、一軒の家から微かな揺らぎを感じた。

 気まぐれに中を覗くと、小さな部屋の布団に顔を赤くした幼い者が寝込んでいた。

 小さな寝息と、時折漏れる「ううぅ……」という苦しげな声になぜか放っておけず部屋に入り込む。幽霊の吾輩にガラスも壁も障害にはならない。

 どうせ吾輩のことは見えやしない。近づいて覗き込めば、ぼんやりと目を開けた幼き者がまっすぐに吾輩の方を見て、細い声で言った。


「だぁれ?」


 吾輩は驚愕した。吾輩の姿が見えているのか?


「幽霊だな」

?」


 名は忘れているが、という名ではなかったように思う。

 そんなことより吾輩の声も聞こえているではないか!

 幼き者は熱で潤んだ瞳で吾輩を見つめ返し、「がらすのおにんぎょう……」と小さく言う。

 幽霊がわからぬようだ。吾輩のことは透き通る姿で見えてるのだろう。ガラスの人形か。面白い例えをするものだ。


 なぜこの幼き者には吾輩を認識できるのか不思議でならなかったが、すぐに考えるのをやめた。

 目の前の幼き者が大きく咳き込み始めたからだ。

 止まらぬ咳。

 苦しみながら布団の外に這い出て、そこにあった器の何かを飲んだ。

 ぜぇぜぇと荒い呼吸が続くが、こんなに幼き者が苦しんでいるのに大人が来ない。

 この者は放置されているのか?

 這って布団に戻った幼き者の額にそっと触れる(もちろん実際に触れることはできないが)と、強い熱を感じた。


「ふああぁ、ひんやり、きもちいい」

「は?」

「もうちょっと」


 吾輩が触れたことがわかるのか? ひんやり?


「おとうたんいないの。ね、かえってくるまでいて?」

「……そうか。わかった。熱が下がるまで話し相手くらいにはなってやろう」

「ふふふ」


 熱で頭がぼんやりしているのだろう。やがて熱が引けば、吾輩のことは夢か幻だと思い込むに違いない。

 吾輩はそう決めると、幼き者の看病の真似事をするために枕元に座った。


 幼き者は生まれつき体が弱く、よく熱を出すという。

 病弱な自分の治療費を稼ぐため父親は朝から晩まで働き詰めで、なかなか一緒に過ごす時間がないそうだ。母親のことは知らないという。

 今日は父親の親、幼き者の祖父母が来る予定だったが二人とも高熱を出す病にかかり来られなくなったのだという。それで一人なのだと。


 疲れて帰ってくる父親に早く休んでほしいから、寂しいけれど我慢して寝ているふりをして一人泣くがつらいと言う。

 早くよくなりたい。

 お父さんと一緒にご飯が食べたい。

 たまに抱きしめて一緒に寝てほしい。

 だけど、自分がいるとお父さんは心配して気を使ってしっかり休めない。

 だから一人で寝るのだと言い張ったんだと。


 ポツポツと出てくる吐露に吾輩は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 この小さな体でどれだけの我慢をしているのだろう。

 そうか、そうかと相槌を打ちながら、家の中を探る。

 家に漂う残滓が告げてくるのは幼き者の父親だろう者の葛藤。僅かに違う残滓は祖父母だろうか。どの者も思い合っている。このように幼き者を一人にしていることに腹立たしくなりそうだったが、やむにやまれぬ事情がありそうだ。吾輩が来た今が異例だったのだろう。

 一緒にいたくてもいられない生きる厳しさ。

 思い合っているのに掛け違いのボタンのようだ。


 幼き者の呼吸が落ち着いてきた。先程飲んでいたのは薬湯だろうか。

 よろよろと起きて汗に濡れた寝間着を着替え、床を這って手洗いに行く。先程よりはだいぶよさそうだ。


「これね、おとうたんにあげるの」


 布団に戻ってきた幼き者が布団の下に隠してあった紙の束を開いて見せてきた。

 何が描かれているのか、文字のようなものもあるがそれも何と書いてあるのかわからん。わからんが、わからんと言ったらいけないことくらい吾輩にもわかる。


「うん、よく描いた。よく書いた。これはなんだ?」

「あたし」


 五種類ほどの色の洪水だが父親と自分を描いたらしい。文字らしき部分を考えに考え、おそらく「ありがとう」と書いてあると推測した。


「感謝の手紙だな」

「うん。それでね、おまもりつくりたいけどうまくできないの」


 お守りとは何だと思えば折り紙の鶴だった。

 これは吾輩も知っている。

 吾輩が以前に引き籠もっていたところに随分とたくさん捨てられ、なぜ吾輩のところに捨てに来るのかと奇妙に思っていた。毎日のように掃除をしにくる者が片付けていたので気にはしなかったが。

 幼き者が、こうして、こうしてと折っていくが、出来上がったのは不格好な鶴。落ち込んで部屋の引き出しにしまい込んでしまう。その中には同じように不格好な鶴がいくつも隠されていた。


「心を込めて作ったのだ。隠さずともよい」

「かっこいいのをあげたいの」


 幼くとも志の高さよ。

 吾輩は紙に触れることはできぬ。

 紙の端と端をしっかりと合わせるのだと、ゆっくりと、丁寧に折るのを見守れば、三つ目のものはよい出来栄えになった。


「すごい! できた! ありがとう!」

「そちが頑張ったからだ」


 幼き者はできた折り鶴を大事に紙の束に挟んだ。父親が帰ってきたら渡すという。

 折り鶴ができて安心したのと体が疲れを訴えたのだろう。幼き者は布団に戻るとすっと眠りについた。


 吾輩は幼き者の健気さに感動していた。

 寝具や引き出し、照明器具たちが教えてくる。父親は幼き者が隠している折り鶴の存在もわかっているようだ。

 吾輩は静かに引き出しに手をかざした。引き出しが開き、隠されていた折り鶴が舞い出てくる。


「このようなことをするのはいつぶりかの」


 部屋のいくつもの家具たちがたまにはいいじゃないかと吾輩に力を貸してくれた。

 折り鶴が糸で繋がれていく。

 吾輩がその昔に引き籠もっていたときは、百だか千だか万だか物凄い数で繋げられていたが、その数には及ばぬものの素晴らしき思いの結晶よ。


「寂しいなら寂しいと言え。寂しいとわかっているのなら寄り添え。涙は似合わん」


 吾輩は掛け違いの親子の思いに念じた。

 吾輩にこんなことができたのかと念じながら思い出す。


 移り変わる人の営みに取り残された吾輩のやしろ

 朽ちて、壊され、吾輩は居場所を失った。

 八百万の神とも妖怪とも言われた時代は幾久しく遠くなり、吾輩を知る者がいなくなり、吾輩は名をなくしたのだと。


「いつぞこの姿もなくなるのだろうか」


 行雲流水こううんりゅうすい。そのときはそのときだ。


 折り鶴たちに願いを込めたが、さて吾輩はあの空き家を出てきたので居場所がない。ならばと吾輩は幼き者の家にくことにした。


 幼き者の父親が帰ってきて、何が描かれているのかまったくわからない紙を見て大泣きしたこと、折り鶴を大事に大事に袋に入れて持ち歩くと約束したこと、吾輩が残した折り鶴を見て父親が幼き者に何かを言い、二人で正座して折り鶴に祈った。

 よしよし、折り鶴に触れると幼き者の寂しい吐露を再現させたが、果たして父親に聞こえたようだ。


「幽霊さんはね、きっと神様だったんだよ。こんなに小さい娘を一人にしていた僕を叱りに来たたのかもしれない」

「ゆうへいさんやさしかったよ! おとうたんがんばっててえらいって!」

「そうか、そう……か……。もっと一緒にいられるようにするからな。熱が下がったら丘のやしろにある産土神うぶすながみ様にお礼に行こう」

「うん!」


 波乱万丈などいらぬ。ただ、穏やかに笑顔たれ。


 吾輩は遥か昔からこの地に鎮座し、人の生まれから死まで、その営みを見守り続けてきた神である。

 産土神うぶすながみと呼んでくれれば応えよう。

 今しばらくはこの者たちを見守ろうではないか。


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 あとがき(懺悔)

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夏目漱石の「吾輩は猫である」の冒頭に似せて、「吾輩は幽霊である」で始まる創作をしたら、こういう話になりました。

書き出したときは何も考えていませんでしたが、神になっちゃいました(笑)

ところで何が書きたかったのかと言われると、冒頭の出だしを使ってみたかったんだということになり、何かテーマが合ったわけではないです(苦笑)

日本古来から伝わる八百万の神、妖怪たちのことは好きなので、最後はそんな感じに着地。


……只今、連載ものの小説執筆中ですが、大きくスランプでして息抜きの文字綴りだったことを白状します。


お読みいただき、ありがとうございました。

未来に「幽霊な神様が活躍する小説のネタ」ものとして投稿・公開です。予定は未定です!(笑)

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吾輩は幽霊である 愛賀 綴 @nanina_tsuzuru

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