古いモノ
「ただいま」
玄関のドアを開けると叔母が出迎えてくれた。
「遅かったじゃないの。心配していたのよ」
叔母はほっとした顔をした。
「ごめん、ちょっと散歩に出てたんだ」
とっさにごまかした。
まさか墓地で変な女の子に出会ったとは言えなかったからだ。
「そう、なら良かったけど……あら?」
叔母は何かに気が付いたように鼻をクンクンと動かした。
「この匂い、なにかの香水?」
「香水?いや、そんなもの付けてないよ。」
俺は思わず自分の体を嗅ぐ。しかし特に何も匂いはしない。
「そう?でもなんだかとっても良い香りだわ。どこかで嗅いだことあるような……」
「そうかな?」
俺は首をかしげる。自分が纏っている香りは自分では分からない。
「なんだか、懐かしい香り。」
線香の臭いでもないなら、もしかして。脳裏にあの不思議な少女の姿が過る。
叔母は少し不思議そうに首を傾げ、台所に戻った。
「まあ、気のせいかしらね。」
それきり何もなく、俺も叔母と合流し法事の用意をしたのだった。
法事の後は叔母の家で食事会だった。親戚同士は久しぶりの再会に喜び合っていた。
だが俺はあまり会話には参加せず、黙々と食事をしていただけだった。
田舎の良いところでもあり、悪いところでもあり。
ここでは酒を飲んで場を盛り上げるのが常で、高齢の世代が盃を回すたび、笑い声が大きくなっていく。
地酒の瓶が次々と空になり、誰かが昔の失敗談を引っ張り出しては、皆で腹を抱えて笑う。
子供の頃は、そんな輪の中にいても楽しかったのに、今は違う。俺はただの傍観者だ。
父の息子であるはずなのに、なんというかここでは俺は完全な異物だ。
叔母が、俺の皿に煮物の付け合わせをよそいながら、小声で囁いた。
「健一くん、もっと食べなさい。遠慮せずに」
彼女の優しさが、有難いが、その気遣いが逆に、俺の胸を締めつける。
俺はここに、馴染めない。十年間の空白が、埋まらない。
「ありがとう、叔母さん。でも、ちょっと……疲れてるのかな。」
俺は曖昧に笑い、箸を置いた。会話の輪から抜け出し、座敷の隅の窓辺に移動する。
逃避だ。これでは俺も父のことを笑えないな。
賑やかな声が、遠く聞こえる。
窓の外は、すでに昏い闇に包まれている。
俺が普段いる富士山山麓の街も田舎だと言われているが。
ここにいると本当の田舎とはこういうことなのだと思い出される。
闇が深いのだ。山々が、闇が、自然が四方八方から押しつぶさんばかりに人間を取り囲んでくる。
視線を彷徨わせていると、ふと、脳裏に彼女の姿が過った。あの少女。
墓地で出会った、黒いセーラー服の美少女。
気のせいだ。疲れだ。でも、なぜか、闇の向こうに、彼女のシルエットが見える気がする。
俺は息を吐き、叔母の方を振り返った。
彼女はまだ、親戚の輪の中で笑顔を浮かべている。俺は意を決して、叔母の袖を軽く引いた。
「叔母さん、ちょっと聞きたいんだけど……今日、墓地で、変な女の子に会ったんだ。黒いセーラー服着てて、白い肌で、長い黒髪の。父さんの知り合いだって言ってたけど……そんな人、知らない?」
叔母の笑顔が、ぴたりと凍りついた。盃を持った手が、わずかに震える。彼女は周囲を気にするように声を低くし、俺を座敷の隅に連れ込んだ。
「……それ、どんな子? 名前は?」
「聞いてない。父さんの尻ぬぐいをしてたとか、変なこと言ってて。なんか、気味が悪いけど、すごくきれいな子。」
叔母の顔色が、青ざめた。彼女は窓の外をちらりと見て、声を潜めた。
「浩二の……知り合い? 健一くん、あの子に、近づかない方がいいわ。あの子は……この山の、昔からのものよ。浩二が、いつも心配してた。あなたを、守るために、浩二はあの子と約束したの。でも、危険よ。絶対に、関わらないで。」
叔母の言葉に不穏なワードが混じる。
昔からのもの? 約束?俺は叔母の手を握り、問い詰めようとしたが、彼女は首を振った。
「今は、いいの。荒唐無稽なほら話に聞こえるだろうから。法事の後で、話すわ。」
取り付く島もなく、彼女は親族の輪の中に戻っていった。
その後は特に何事もなく宴会は進み(俺はひたすら空気となり)、親族たちは三々五々、帰路へ着いた。
俺は徒歩で帰ろうとしたのだが、親族のおじさんが「健一、送ってくよ」と声をかけてきた。
俺は固辞したが、最近はこのあたりにも熊が出ると脅され、好意に甘えることにした。
外はもう真っ暗で、山道の街灯がまばらに点くだけだ。
おじさんの車は古い軽トラで、エンジンの音が低く響く。車内はタバコの匂いが染みつき、おじさんはハンドルを握りながら、地元の噂話を振ってくる。
俺は適当に愛想笑いと相づちを打ちながら、おじさんとの会話という苦行に10分少々耐えることになった。
実家に着くと、おじさんは「また明日な」と手を振り、去っていった。
玄関の灯りを付け、鍵を開ける。家の中は静かで、人の気配はない。
俺は靴を脱ぎ、廊下を歩く。
これだけ家を空けていて綺麗に中が保たれているのはひとえに叔母の好意だろう。本当に足を向けて寝れないな。
風呂場に向かい、湯を張る。湯船に浸かると、熱い湯気が体を包む。肩の凝りがほぐれ、俺は放心した。
やはり田舎の濃密な対人関係は肩がこる。
のぼせる前に風呂から上がり、体を拭く。
タオルで髪を拭き、 パジャマに着替え、歯を磨く。
寝る準備はそれだけだ。
布団を敷き、電気を消すと部屋は闇に沈んだ。
風の音が、かすかに聞こえる。布団に横たわり、目を閉じる。
眠気が来ない。
子供のころは当たり前に感じていた山の存在感がひしひしと伝わってくる。
『もう日が暮れる。あんたはもう帰った方がいいよ。街にでたあんたは忘れたかもしれないが、夜の山は人の領域じゃないんだ。』
墓場で出会った彼女の声が不意に蘇る。
俺は目を閉じ、深呼吸した。
眠ろう。明日は法事なのだ。
「寝れないのか?」
俺一人のはずの部屋に突然、声が響いた。
「~~!!!」
跳ね起き身構えた。
施錠しておいたはずの窓が開いている。
風でカーテンが大きく膨らみ、薄暗い部屋に月明りを投げかけている。
その窓に背を預けるようにして、あの少女が立っていた。
月明かりに照らされた白い肌は真珠のように艶やかで、そして彼女の黒いセーラー服と長い黒髪が風にたなびき、まるで闇の中に漂うように揺れている。
少女の怪しい美しさが闇の中に匂い立つように醸し出されていた。
「お、お前……」
俺は後ずさりながら、彼女を見つめる。
彼女はそんな俺の様子を面白そうに見ている。
「どうした?そんなに驚いて。」
少女はくつくつと笑った。
「なんで……ここに?」
「あんたに会いに来たのさ。」
彼女はそう言ってゆっくりと俺に近づいてくる。
「佐藤健一君」
「あんたに会いに来たのさ。」
彼女はそう言ってゆっくりと俺に近づいてくる。
「佐藤健一君」
名前をよばれた瞬間、体が硬直した。金縛りってやつだろうか。
目だけかろうじてうごかせる。
俺は片膝を立てかけた無様な格好のまま横倒しになった。
「名前を教えたら駄目だってのは、こういうことな。」
そんな俺の姿を楽しむように彼女がゆっくりと近づいてくる。
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