一章 此世ノ地獄ヘ蜘蛛之糸ヲ垂ラス

絶望と縄と文芸誌。

 よし、死んで仕舞おう。これ以上はもう無駄だ。 自分に才能があると信じるのも、そうやって自分を信じて書き続けるのも、もう疲れてしまった。


 そう決めた男の瞳は、痩せて落ち窪んだ眼窩の奥で、脂で汚れた眼鏡のレンズの先で、異様な光を灯していた。


 達川雷蔵たつかわらいぞう。齢二十四、自称作家。


 乾いた冬の空気で荒れた手には、一冊の文芸誌となけなしの銭で買った縄が握られていた。白昼、伸びっ放しの髪を適当に括った無精髭の男が、鼻緒が切れかけたようなボロボロの下駄を鳴らして羽織も着ずに東京の下町をふらふらと彷徨う。その姿は、まるで化けて出る時刻を間違えた阿呆な幽霊のようだった。通りすがる人々は一様に目を逸らし、怪訝な顔で彼を避けていく。


(もう少しで楽になれる……)


 そう思うと、異様に昂ぶる気持ちが雷蔵を早う早うと急き立てた。 この角を曲がれば、崩れかけの古い長屋が見える。自然と上がる心拍数と荒くなる呼吸に合わせて歩みを進めたその瞬間、雷蔵は碌に前を見ていなかったせいで出会い頭に小さな人影と激しくぶつかった。痩せ細って骨と皮だけとなった身体はいとも簡単に倒れ、雷蔵は勢いよく尻餅をつく。バラバラと手に持っていた荷物が地面に散らばった。


「っ……痛てえな……! 何処見て歩いてるんだ!」


 不注意であったのはどう見ても此方であるにもかかわらず、死への決意で昂っていた雷蔵は、自らを棚に上げて態度大きく舌打ちをする。


「いたた……。すまない、怪我は無いかい?」


 悪態でもついてやろうと逆立てていた感情は、次の瞬間鈴のような声によって祓われた。顔を上げたその先に、整った顔立ちの少年が座り込んでいる。


 齢は十二、三ほどか。新雪のような白い肌、絹糸のように滑らかな髪。すべてが神によって誂えられたような容貌を持つ少年を前に、雷蔵は思わず息を呑んだ。


 あぁ成程、これは夢か。ずれた銀縁眼鏡を直すこともせず、雷蔵は呆けたようにその少年を眺める。その間、少年はゆっくりと身を起こし、雷蔵が落として地面に転がっている縄と文芸誌を拾い上げた。表紙についた土埃を払おうとした手が一瞬止まり、ぱっとその端正な顔が綻ぶ。


「これは『日々是好日ひびこれこうじつ』じゃないか! しかも最新の十一月号だ! どうだい、今回は特に良かったろう!」


 雷蔵は夢見心地のまま、気のない声で「へぇ」とだけ返した。太陽のように眩しい少年の笑顔は、死を覚悟した雷蔵にとっては何よりも恐ろしい毒となる。


「そうだ、君。この雑誌に寄稿してくれた達川雷蔵という作家を知らないかい? 僕は彼を訪ねてきたんだ。確かこの辺に住んでいると封筒に……」


「……達川雷蔵は、俺、だが?」


 子供にしてはやけに落ち着いた口ぶりに警戒しながら、雷蔵は目を細めて口籠りながら返事をした。こんな少年が自分に一体何の用だというのか。


「……本当かい? 本当に、君が雷蔵……?」


 その言葉を聞いた少年は、今にもその大きな瞳がこぼれ落ちそうなほどに目を見開くと、ぱっと雷蔵に駆け寄り、雷蔵のカサついて赤切れた両手をぎゅっと握り締める。 小さく白いその手は、冬の空気と同じようにひやりと冷たく、そして驚くほど滑らかだった。鼻先にまで詰め寄った、きらきらと輝く瞳に見つめられ、雷蔵は戸惑いながらも小さく首を縦に振る。


「『日々是好日ひびこれこうじつ』は、君の作品によってひとつ階段を登った! あの原稿、どれほど嬉しかったか……! 雷蔵、書いてくれて本当にありがとう。どうかこれからも書き続けて欲しい」


 なんて真っ直ぐで、熱烈な読者だろう。雷蔵はその一途な言葉を受け、長く胸の底で泥のように沈んでいた思いが少しずつ解れていくのを感じていた。


「……君こそ、そんな歳で文芸誌に目を通すとは殊勝なことだな。それにたった一度しか寄稿していない無名作家の名まで覚えているとは。将来は帝国大学にでも進んで、立派な書き手になるだろうよ」


 雷蔵は自分よりずっと若く、熱烈な言葉を掛けてくる目の前の少年に、少しばかりの先輩風を吹かせるつもりであった。膝を立ててようやく立ち上がり、袴の裾に着いた砂を払いながらゆっくりと少年を見下ろす。


「その必要はないよ。僕も君と同じ物書きだからね」


「……は?」


 しかし少年は胸に手を当てて思いも寄らない言葉を放つと、澄んだ目で雷蔵をまっすぐに見上げた。


「申し遅れたね。僕はこの『日々是好日』の主宰、橘波留日たちばなはるひだ」


 その言葉一つ一つを理解した瞬間、稲妻のような衝撃が雷蔵の全身を真っ二つに裂いた。 ボロボロの足元はぐらりと揺れ、毛穴という毛穴からぶわりと脂汗が噴き出す。雷蔵は右手で頭皮に爪を立て、ボリボリと痛むほどに掻き毟った。


「……は、はは……何の冗談だ……」


 彗星の如く現れた、正体不明の鬼才作家。二年程前、そう銘打たれて文芸界に鮮烈なデビュウを飾った作家の名こそが橘波留日。文士を志し、文学を愛する者であれば、その名を知らぬ者などいない。謎に包まれた彼の正体について、女だの男だの、老年だの若者だの、確証のない噂がまことしやかに駆け巡ったのも一度や二度ではない。皆が橘波留日に衝撃を受け、皆が橘波留日を知りたがった。


 その名を名乗る者が今雷蔵の眼前に立っている。年端も行かぬ、小学校を卒業したばかりのような少年の姿で。階段を駆け上がるように名を挙げ、僅か一年の間に文芸誌すら刊行したような小説家が、こんな幼い子供の姿で。


 あり得ない、あり得ない、あり得るものか。雷蔵はこの一部始終を、薄っぺらい落語よりも質の悪い冗談だと思い切り笑い飛ばそうとした。しかし喉は緊張で貼りつき、ヒュウと乾いた音を立てるばかり。


「本当さ。だから、こうして君を訪ねて来た」


 自信に満ちた口調。心の奥底を見透かすような光を宿した眼差し。雷蔵は無意識のうちに一歩後ずさった。その光は、ただの子供が纏うにはあまりに異質で鋭い。


「橘……波留日……」


 その名こそ、今日、雷蔵が縄を買った理由だった。


「お前が、あの橘波留日で、日々是好日の主宰だって……? 冗談も休み休み言ってくれ……!」


 波留日が主宰する文芸誌『日々是好日』は、都内の小規模な新聞社である朝星ちょうせい新聞社によって発行されている商業誌である。


 しかし、その性格は一般的な文芸誌とは大きく異なっていた。


 日々是好日では、出版社が原稿料を支払わない代わりに、審査も編集も一切行わない。思想・立場・文体のいかんを問わず、誰もが自由に投稿でき、検閲にさえ抵触しなければ、そのまま誌面に掲載される。つまり、掲載作のすべてが「投書」で成り立っているのだ。


 この仕組みのため、寄稿者の顔ぶれは多岐にわたり、まるで市民全員が同士であるかのような独特の一体感を生み出していた。刊行当初、朝星新聞社は日々是好日を特徴づける言葉として、「市井文芸誌」と銘打った。


「残念ながら冗談ではないよ。疑うのなら今すぐ編集部に来てもらってもいい」


 そして今から一ヶ月半程前、雷蔵はその市井文芸誌へ、自らが置かれた八方塞がりで絶望的な状況を打開するために、希望を託して原稿を送った。話題になればと、どうか誰かに届いて欲しいという願いを込めて。


 しかし、夢にまで見た文芸誌という舞台で世に出たはずの自分の言葉は、いざ活字となって並んでみると、ただの「文字の羅列」にすぎなかった。文士でもない様々な人間が投稿する数多の作品の中で、輝くはずだった文は一筋の光も放たず、灰色の中に沈んでいた。印刷された紙とインクの匂いが立ち上る中、雷蔵は、自分が信じてきたものがまるで幻だったかのように感じて立ち尽くした。


もしこの作品を、ただの読者や、あるいは文士が見たとしたら。彼らは何を感じるだろう。おそらく何も感じはしない。頁を捲るその数秒の間をただ通り過ぎていくだけだ。


 ――自分は何者でもないし、何者にもなれない。

 そんな言葉が胸の底からにじみ出て、喉元で重く滞った。


 雷蔵がそう思わされたのは、同じ号に掲載された橘波留日の短編が、あまりにも強烈だったからでもある。久々に筆を執ったというその作品は、ひとたび目にすれば、誰の記憶にも焼き付いて離れぬほどの力を持っていた。


 ――あぁ、何をしたって敵わない。


 彼の綴る、あの美しく、鋭く、そして恐ろしいほどの言葉を自分が書ける日は永遠に来ないだろう。


 一体彼はどんな人生を歩み、何を見てきたのか。雷蔵は恐怖した。地獄を味わったつもりであったのに、彼の文にはさらに深い奈落と、そこに差し込む眩い一筋の光があった。

 どうすれば、あの高さに辿り着けるのか。どれほど生まれ変わり、どれほどの痛みに身を晒せば、あの領域へ行けるのか。


 そんな絶望と畏怖が静かに雷蔵の胸の奥を締め付け、遂に、彼の中で何かがぽきりと折れた。


「……じゃ、じゃあ、俺は……こんな子供のために、死のうとしてたってのか……?」


 冬の空気に晒され、乾いて皮の剥けた雷蔵の唇がひくりと震える。掠れた息が嗚咽のように漏れ、それでも無理やり言葉が絞り出された。


 目の前に立つこの少年が、あの橘波留日だと名乗った。


 その瞬間、血が逆流するような熱が駆け巡り、焼けるような嫉妬と、どうしようもない怒りが、骨の髄まで満ちていく。


「そんな馬鹿な話があってたまるか!」


 叫びとも呻きともつかない響きが、冬の下町に響いた。

 雷蔵は着古されて煤けた着物の胸元を引っ掴み、眉を吊り上げ、歯を食い縛って目の前の少年を見下ろす。


「この俺を殺す男だぞ……! あの文で、俺を絶望に突き落としたんだ! もっと……もっと崇高で、貫禄のある男でなければ……俺が死ぬ意味が……!」


「……へぇ。君、死ぬの。何で?」


 酷く冷たい声がその発露を遮った。ハッとして声の主を見れば、先程の無邪気な少年然とした瞳とは一転、何もかもを飲み込む深淵のような黒が雷蔵を見上げているではないか。


「まだ何者にもなっていないのに、何も残せないまま、こんな若造に自尊心を引き裂かれて愚かにも喚きながら死ぬのかい」


 凍てつく声に雷蔵は腰を抜かし、足をもつれさせて情けなく座り込んだ。弾みで舞い上がった砂埃が、冬の乾いた空気に溶けていく。


「お、俺は……」


 言葉が続かない。ハクハクと溺れた魚のように口を開閉するしか無くなった雷蔵を前に、波留日は名案だと言わんばかりにニヤリと笑ってみせた。


「そうだ、達川雷蔵。そんな情けない死に方をするなら、その前に僕の世話係に御成りよ」


 その笑みは、悪戯を思いついた子供のように無邪気で、それでいてどこか恐ろしい。雷蔵はその形のいい唇から飛び出した言葉に唖然とし、その意味を漸く理解した後カッと青筋を立てて気色ばんだ。


「だ、誰が世話係になんて! 俺は誰の下にもつかない! 冗談じゃない!」


 なけなしの気力を振り絞って言い返せば、波留日は雷蔵の薄汚れた着物の襟を掴むと、ぐいと自分の方へ引き寄せる。そして拾い上げて手にしていたままの日々是好日をぐいと襟元へ捻じ込んでみせた。口封じと言わんばかりに。


「決めるも何もないよ。ねぇ、雷蔵?」


 その声は穏やかである一方、全く温度を感じなかった。雷蔵は鼻先が触れそうな程に詰め寄った波留日を前に、否応なしに目を合わせざるを得なくなる。そしてそんな波留日の瞳の奥で、ゴウゴウと音を立てて燃え盛る巨大な炎を見た。


(コイツは一体、何者なんだ……!)


 雷蔵の薄い胸の中は得体の知れない恐怖で埋め尽くされて瞬く間に体内へ蓄積し、喉元までせり上がる。雷蔵の呼吸は呆気なくままならなくなり、わななく唇を引きつらせると、叫び声にも似た悲鳴を上げて走り出した。


 下駄が片方脱げたのも構わず、後ろも振り返らずに地面を蹴る。逃げなければならないという直感だけが、死にかけて、死を望んでいた雷蔵を突き動かした。


 波留日はその情けない雷蔵の後ろ姿をじっと見つめて口を真一文字に引き結ぶ。そして、ゆっくりと膝を折ってしゃがみ込んで、地面に落ちていた縄を手に取った。



***



 少年の気迫にあえなく敗れた雷蔵は、ガタガタと立てつけの悪い引き戸を無理矢理開けて狭く薄暗い自室へと転がり込んだ。片方だけの下駄は脱ぎ損ねたまま、散乱した紙束で溢れる床を這って進む。


「死んでやる、死んでやる……! あの小僧、一体俺の何を知って、あんな口が利けるんだ! 馬鹿にしやがって!」


 雷蔵はバサバサと乱暴に着物の袂へ手を入れてしきりに腕を動かした。なけなしの金で買ったあるものを取り出すために。けれど、ない。肝心の縄が、どこにもない。


「アイツ持って行きやがった! 畜生が!」


 雷蔵は拳を床に叩きつけて歯を食いしばる。荒れた息づかいが部屋にこだました。


「いいや……何も死ぬ方法はアレだけじゃねぇ筈だ……!」


 血走った目で辺りを見回した雷蔵の目が、ふと一点を捉える。碌に手入れもせず、蜘蛛が巣を張りそうな程に放置された水瓶の横。転がっている錆びかけの剃刀。しばらく使っていなかったそれが、妙に眩しく見えた。


「太い血管を切ってやればいいんだろう……?」


 雷蔵は袖をまくり、腕の内側、皮膚が薄く血管が青く走っている部分に刃を当てた。ひやりと無機質な金属の温度が、日焼けとは無縁の白い肌を泡立たせる。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 冬なのにも関わらず全身から汗が噴き出し、額から顎を伝って滴った。一滴、二滴、三滴……。床に散乱する書き損じた原稿用紙にポタポタと汗が滲んでいく。


 視界が歪み、世界が、音が遠ざかる。酸素が足りない。雷蔵の手は痙攣し、剃刀の切っ先が跳ねた。


 ――あの原稿、どれほど嬉しかったか……本当にありがとう――


 キィンと耳鳴りがして、あの少年の声が蘇る。ふと気づけば、冷たい剃刀を持つ雷蔵の手にふわりともうひとつの感触が重なっていた。ひやりとした小さな手が、彼の指をそっと包み込む。


 ――どうか、これからも書き続けてほしい――


 ――雷蔵――


「っ……何で、だよ」


 あんなにも拒絶し逃げ出したのに。過ったのは彼の言葉、彼が呼ぶ自分の名だった。震える指の隙間から剃刀が零れ落ちる。床の上を転がる音がやけに大きく響いた。雷蔵は力み過ぎて震える己の右手をそっと抱きしめて蹲る。カチカチと歯の根が合わないまま、ひとつ言葉を吐いた。


「……最悪だ」


 死ぬ理由を作った奴が、その口で死ねない理由まで寄越してきた。腹の中で、喉の奥で、感情が膨れあがっては形にできず、ただ、ひとしずく、涙とも汗ともつかない水が、頬を伝って落ちる。酸欠で霞む頭のまま、雷蔵は目を閉じた。

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晴ル日々好日 ― 文豪に成るまで死ねぬ ― 安藤未粋 @misui_undo

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