第4話

「他人の物を奪っても自分の物にはならない。それが道理だ」


 レオンが棒を受け止め、手首を捻った。


 それだけで身体が宙に舞った。受け身も取れずに頭から地面に叩きつけられ、今度こそ立ち上がることができなかった。


「痛覚軽減があっても、衝撃そのものは消せない。だから脳震盪を起こすような攻撃は絶対に避けなければならない。普通は言われずとも理解していることだ。攻撃スキルにも同様の弱点がある。だが君には一生、わからないのだろうな。人から奪っただけの紛い物を振り回して喜んでいる君には」


 レオンの言葉が、心を深く抉ってくる。


 一年間、山で必死に生きてきた。スキルを集め、強くなったと思っていた。


 でも、現実はこれだ。努力してスキルを獲得した本物の戦士の前では、どれだけスキルがあっても無意味だった。


「拘束しろ」


 レオンはすぐ視線を外し、部隊の方へ歩いていった。「エリナ、最寄りの駐屯地はどこだ」


「フェルミナ駐屯地ですね。フェルミナ領中央付近の」


「あそこか。辺境伯とは面識があるし、ちょうどいいな。そこにしよう」


 レオンの命令で、兵士たちが近づいてくる。金属質の縄のようなもので両手を縛られ、そのまま引きずられていく。


「ちくしょう、ちくしょう」


 悔しさで涙が溢れた。自分の無力さが、これほど痛いものだとは思わなかった。


 最強になる夢も、自由に生きる希望も、全てあっけなく砕け散る。


「気色悪いな。悪魔に魂を売って元居た世界から落とされた罪人風情が、被害者ぶるなよ」


 最初に俺と相対した赤目の兵士が、冷たく言い放つ。


「俺は、悪魔に魂なんて売ってない」


「じゃあ、なんでそんなにスキルがあるんだよ」


 髪を鷲掴みにされ、顔を無理やり上げさせられる。


「それは、スキルを奪える奪取スキルがあるから……」


「そんな呪われたスキル、悪魔に魂でも売らなきゃありえねえだろ、くそが」


「……実際にそういう場面を見たのか? 見てないだろ。そんな推測だけで、人をこんな風にしていいわけないだろ」


「ああ!? 推測だけじゃねえよ。お前らが散々人を殺してきたからこうなってんだろうが」


 髪を強く引っ張られ、顔に唾を吐かれた後、地面に投げ捨てられた。歯を食いしばり、涙をこらえる。視界が涙で歪んでいた。


 俺が人を殺したわけでもないのに、どうしてここまでの仕打ちを受けなければいけないのか、まるでわからなかった。わからないけれど、落ち人がこの世界でどういう存在なのかは理解できた。歓迎される存在ではない。恐れられ、憎まれる存在なのだ。


「では落ち人をフェルミナ駐屯地まで移送する。出発だ」


 レオンの声が響いてきた。部隊が移動を開始する。俺も兵士二人に両脇を掴まれ、そのまま引きずられていく。


 振り返るとあの懐かしい山が小さく見えた。こんなことになるのなら、ずっとあの場所にいればよかった。一日だけでいいから時間を巻き戻してくれ。意識を失うまでずっとそう願い続けた。




 拘束されてからの扱いは、想像以上に酷かった。


 部隊は山間の細い獣道を進んでいた。両側に聳える樹木が陽光を遮り、足元は湿った落ち葉で滑りやすかった。空気はひんやりとしていて、時折吹く風が枝葉を揺らし、ざわざわと音を立てていた。


「ほら、さっさと歩け、落ち人」


 背中を蹴られて前によろめく。両手を縛られているため、バランスを崩してぬかるんだ地面にそのまま倒れこむ。


「あれま、転んじゃったよ」


 兵士たちの笑い声が響く。起き上がろうとするが、また別の兵士に足を引っかけられて再び倒れる。


「鈍いなあ、さすが落ち人」「山でスライム相手にしてただけあって、動きが鈍重だな」「ほんとにな、落ち人にびびってた昔の俺に言ってやりたいぜ、ただの雑魚だって」


 立ち上がるたびに邪魔をされ、まともに歩くことすらできない。転ぶたびに顔や服は泥だらけになり、膝や肘から血が滲んだ。


 レオンは十メートル後方を歩いており、この光景を見てはいるが止めようとはしなかった。彼の足音は他の兵士たちとは違って規則正しく、湿った地面を踏みしめる音が一定のリズムを刻んでいる。頭上では小鳥が鳴き声を響かせているが、その平和な音とは裏腹に、この場の空気は淀んでいた。


「隊長、止めなくていいんですか?」


 部隊には不釣り合いなほど幼く見える金髪の女性兵士が訊ねる。剣を携えていないところを見るに、後方支援を担当している兵士だろうか。地球ではまだ中学に通っていそうな、同い年くらいの少女だった。


「……落ち人だからな、多少のことは仕方ない」


 レオンの声は冷たかった。あの戦いでの余裕ある態度とは打って変わって、今は明らかに距離を置こうとしていた。


 つまり、誰も助けてはくれない。


 それからしばらく進み、副隊長らしき者の掛け声で野営の準備が始まった。俺は近くの樹の根元で膝を抱えながら、和気あいあいと各々の作業を進める部隊の様子を静かに眺めていた。


 日は傾き、木々の間から差し込む夕日が森の中を薄紅色に染めている。兵士たちはそれぞれのグループごとに円陣になって焚火を囲み、温かそうなスープとパンを食べたり、装備の点検をしたりしていた。そして時折、


「ありがたく思えよ、落ち人。普通なら何も与えないところだ」


 兵士たちの間から千切られたパンが飛んできた。不意打ちのように飛んでくるそれをキャッチすることは難しかった。ぬかるんだ地面に落ちて泥だらけになったものを、犬のようにみっともなく食べるしかなかった。長時間の歩行により腹を空かせた俺にとっては、そんなものでもご馳走だったのだ。


「あ、また落ちちゃったな、ざんねん! でもお前には落ちた物がお似合いだよ」


 また笑い声。屈辱に涙を浮かべながら、泥だらけのパンを咀嚼する。噛むたびに砂が歯に当たり、じゃりじゃりという不快な音を立てる。吐き出したかったが、吐き出したところでまともな物がもらえるはずもない。我慢して食べる他なかった。


 夜になると、さらに酷い扱いが待っていた。


 空は完全に暗闇に包まれ、星々が瞬いていた。夜風は思いのほか冷たく、森の奥からは時折、夜行性の動物の鳴き声が聞こえてきた。野営地の中央では焚き火が赤々と燃え上がり、薪の爆ぜる音が夜の静寂に響いていた。テントや毛布にくるまった兵士、立て掛けられている装備類、巡回している兵士たちが焚火の光に照らされていた。暖色の光が当たっている箇所が闇から抜け出たようにきらきらと浮かび上がって見える。自分が膝を抱えている、焚火から離れた薄暗い場所とはまるで別世界のようだった。


 山の夜は想像以上に寒い。震えながら膝を抱えていると、足音が近づいて来た。顔をあげると昼間よく絡んできていた三人だった。


「寒そうだな?」「まあ、お前らは寒さなんて感じないんだろうけどな」「そうそう、人間じゃないもんな」


 自分たちは正しいことをしていると信じ切っている、屈託のない悪意。三人の背後で、焚き火の炎がゆらゆらと揺れ、足元まで伸びた影が踊るように動いていた。薪がパチパチと音を立てて燃える音と、兵士たちの低い笑い声が夜気に混じり合う。


「おい、カイル。あいつ震えてるぞ」「ほんとに人間の真似だけは上手いんだな。感心するよ」「そんなことをしても俺たちは油断なんかしねえからな」


 カイルという名前の兵士が近付いてくる。粗暴そうな顔つきで、その瞳には他の誰よりも強い憎悪があった。


「おい、落ち人」


 近づいてきたカイルは、いきなり襟首を掴んで引き起こした。


「何を企んでる?」


「何のことだ。何も、企んでなんか……」


「嘘をつくな。お前らのやり口はわかってんだよ。最初は無害なフリをして油断させてから、皆殺しにするつもりなんだろう。だが残念だったな、俺は油断なんかしない。お前が牙を剥いたその瞬間に、その首を切り落としてやる!」


 カイルの拳が何度も頬を打った。鋭い痛みが頭を痺れさせる。


「カイル、やりすぎるな」


 別の兵士が止めに入るが、カイルは聞く耳を持たなかった。襟首を掴む手にどんどん力が入り、息ができなくなる。


「やりすぎ? こいつがどれだけの人間を殺すことになるか分からないのか? このカスは今のうちに殺しておくべきなんだ!」


「隊長の命令は『監視対象として保護すること』だ。殺しも体罰も許可されてない。あからさまな違反はしちゃだめだ」


「ちっ」


 カイルは舌打ちをして手を離した。苦しくて地面にうずくまって咳き込んでいる間に、三人の影は消えていた。なぜこれほど憎まれるのか分からなかった。確かに拘束されたくなくて戦ったけれど、一方的に負けただけで誰も傷つけていない。それなのにどうして……。


 翌日も同じような扱いが続いた。


 朝霧が立ち込める中、部隊は再び山道を進んだ。露に濡れた草木が靴を湿らせ、地面と靴底を貼りつかせる。ぺたぺたという足音が霧の中に消えていく。太陽が昇るにつれて霧は晴れていったが、木陰は依然として薄暗く、湿気を含んだ空気が肌にまとわりついた。


 何度も転ばされ、惨めな姿を笑われる。川で水を飲もうとすると、「落ち人が触った水なんて汚い」と言われ、上流での水汲みを禁止された。食事はもらえるようになったものの嫌がらせは続いており、虫の死骸やゴミが混じっていることが多々あった。文句を言えば「嫌なら食うな」と一蹴され、誰もがそれを当たり前のこととして認識しているようだった。


 そして三日目の夜。


 この夜は特に冷え込みが厳しかった。焚き火の周りに集まった兵士たちの吐く息が白く見え、炎の暖かさがより一層貴重に感じられた。星空は美しく澄んでいたが、死を覚悟するほどの寒さの前ではそんなものに意識を裂く余裕はなかった。体温を少しでも逃がさないように丸まりながら震え続ける。毛布が欲しい。それか、焚火の近くに座らせてほしい。そう思ってもそれを口にすることはなかった。無意味なことがわかっていたからだ。笑われるだけならいい。だが生意気だと思われて、今着ている服すらはぎ取られたら? 確実に死んでしまうだろう。こんな状況になっても死にたくはなかった。


 奥歯をがたがたと震わせながら必死に朝を待っていた。


「なあ、お前は何人殺すつもりなんだ?」


 気がつけばカイルがすぐそばに立っていた。この前の兵士たちも一緒だった。


「殺す……って?」


「とぼけるな。お前らは、さらなる力を得るために悪魔に魂を捧げるんだろ? なあ、いったいどれだけ捧げればお前らは満足するんだ?」


「そんなこと、しない。悪魔なんて知らないよ……」


「嘘つけ!」


 カイルの蹴りがわき腹に入る。息ができなくなり、地面の上で芋虫のように身をよじった。地面が氷のように冷たかった。


「お前のお仲間さんが言ってたぞ。ずっと笑いながら、これでまた強くなれるってな」


 カイルの声が震えていた。泥まみれの靴で踏みつけられる。


「俺の両親を、姉ちゃんを、弟たちを、友達を、村の人たちを、薪のように積んで燃やしながら笑っていたよ。楽しそうにな。俺だけが生き残った、一番下にいた、俺だけが……!」


 カイルの固い靴が顔面に突き刺さる。ごりゅという奇妙な音がして、鼻から血があふれ出した。


「やめろ、カイル!」


 別の兵士が止めに入ったが、カイルの怒りが収まる様子はなかった。


「なんで止める!? こいつも同じことをするんだぞ! いつか必ず本性を現して、また大勢の人間が死ぬ! そうなる前に……こいつらは一人残らず殺すべきなんだ!」


「それでも隊長の命令だ!」


「隊長の命令……? それが何だって言うんだ!」


 カイルは仲間たちを睨みつけた。その頬には涙の跡があった。


「お前たちは知らないからそんなことが言える! こいつらの恐ろしさを! こいつらの邪悪さを!」


 その場にいた全員が黙り込んだ。カイルの言葉には、深い痛みと悲しみ、憎悪がこもっていた。


「今度同じことが起きたら、お前たちの家族も死ぬんだぞ。恋人も、友達も、全員死ぬ。それでもこいつを守るのか?」


 誰も答えず、フクロウの鳴き声だけがあたりに響いていた。


 結局、カイルは他の兵士たちに引きずられていった。だが、その憎悪に満ちた目は最後までこちらに向けられており、俺は血を垂れ流しながらその目をずっと見つめ返していた。その目から視線を逸らすことができなかったのだ。


 地面に倒れたまま、空を見上げた。もう寒さは感じなかった。死んでしまうのならそれも仕方ないかもしれない。そう思いながら、満天の星空を見つめた。


 なぜ、こんなにも憎まれてしまうのか。


 自分は何も悪いことをしていない。ただ、この世界に来てしまっただけだ。


 でも、カイルの話を聞いてこの世界の人たちの思いは理解できた。過去の落ち人たちが、どれだけ酷いことをしてきたのか。そのやり場のない恨みと憎しみが、「落ち人」全てに向けられているのだ。


 顔も名前も知らない他人が仕出かしたことなど知ったことではないし、そんなことで人に暴力を振るうな、ふざけるなと一喝してやりたかった。だが、ふざけるなと怒鳴りたいのはこの世界の人たちだって同じなのだ。彼らからしてみれば俺と過去の「落ち人」は同じ存在で、一括りにして憎むべき対象なのだ。


 どれだけ「自分は違う」と言っても無意味なのだ。


 星空が涙で滲む。次から次へと溢れる涙が、顔にこびりついていた泥に沁みこみ、溶かして地面へと落ちていった。






 そんな絶望的な状況で、四日目を迎えた。


「起きろ、落ち人」


 足で蹴り起こされる。身体中が焼けるように痛かった。打撲だらけで、まともに動けない。特に昨日蹴られた際に鼻が折れたのか、呼吸がしづらいのが致命的だった。


「今日は川を渡る。さっさと歩け」


 立ち上がろうとするが、足に力が入らない。連日の暴行と、ろくに食事を与えられていないせいで体力が尽きていた。


「早くしろ。立てないなら蹴り飛ばしながら進むぞ」


 本当に実行されそうな雰囲気だった。必死に立ち上がろうとするが、膝が震えて身体を支えきれない。まずい。どうしよう。


 その時だった。


「何をしている」


 レオンの声が響いた。兵士たちが慌てて敬礼する。


「申し訳ありません! こいつが中々立たなくて……」


「見れば分かる」


 レオンがこちらを見下ろした。その目からは、何の感情も読み取れない。


「動けないようだな」


「すみません……」


 謝る以外に何もできなかった。兵士たちの玩具である自分が、その兵士たちから恐れられ敬われている隊長に無礼を働けばどうなるか、考えなくてもよく理解していた。


「仕方ない。担架を用意しろ」


「は?」


 兵士たちが間抜けに口を開けて固まった。


「担架だ。こいつを運ぶための」


「隊長、落ち人なんてその辺で処分してしまえば……」


「命令だ」


 レオンの一言で、渋々ながら簡易担架が用意された。だが、その扱いは相変わらず雑で、手や足が引きずられていようとおかまいなしだった。休憩時もいきなり落とされ、運ぶ以外のことは一切しないと決めているようだった。


 言葉や態度の全てに憎しみが感じられ、心がどんどん磨り減っていく。

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