第5話

 担架で運ばれながら、ぼんやりと木々の隙間から見える空を眺めていた。雲がゆっくりと流れ、時折木漏れ日が顔に当たる。担いでいる兵士たちの足音と、担架の軋む音が単調なリズムを刻んでいた。


 五日目の夕方、部隊は比較的広い平地で野営することになった。川が近くを流れており、水音が絶えず聞こえている。兵士たちは慣れた様子でテントを設営し、焚き火の準備を始めた。


 相変わらず担架の上に放置されたまま、その様子を見ていると、一人の兵士が近づいてきた。


「おい、少しは歩けるか?」


 声をかけてきたのは、これまで特に関わりのなかった中年の兵士だった。人の頭よりも大きな鉄の塊がついた大槌を背負っている。名前は確か、エドワードと呼ばれていたはずだ。


「……たぶん」


 警戒しながら答えると、エドワードはほっとしたような顔つきでしきりに頷いた。


「そうか。なら少し歩いてみろ。ずっと担架じゃ筋力が落ちる。いざという時、困るからな」


 なぜか、他の兵士たちとは違って敵意を感じない口調だった。立ち上がろうとすると、エドワードの大きな手が背中に触れた。


「ゆっくりでいい」


 足を地面につけると、膝がガクガクと震えた。それでも、なんとか立つことはできる。


「よし。じゃあ川まで歩いてみろ。ついでに汚れも落とせ」


「……いいの?」


「別に逃げようにも逃げられないだろう。それに……」


 エドワードは周囲を見回してから、小声で続けた。


「さすがに見てられん」


 体を見下ろす。泥や血が付いていない場所がないほど薄汚れていた。そりゃそうだよな、と思いながら歯を食いしばって歩き出す。


 川までの距離は短かったが、足取りはおぼつかなかった。川面には夕日が反射してキラキラと輝いていた。水は思ったより冷たく、顔を洗うと少しだけ意識がはっきりした。


 鏡のような水面に映る自分の顔は、見るも無残だった。頬は腫れ上がり鼻は曲がり、唇は切れて血が固まっている。髪は泥と汗でべたつき、まるで野良犬のようだった。


「……ひどい顔」


 自嘲気味に呟く。そうだな、と言いながらエドワードが隣に膝をついた。


「だが、まだ生きてる。それだけでも良しとしろ」


 話しながらエドワードは水をすくって俺の頭にかけた。「俺らが憎くて仕方ないだろうがこんな扱いでもましな方さ、他の地域はもっとひどいぞ。ここらと違って魔獣被害が少ないからな、落ち人への憎しみがずっと消えずに残ってる。カイルのような奴がごろごろいるぞ」


 固くごつごつとした太い指が、泥や血で固まった髪の毛をゆっくりとほぐしていく。たまに髪が引っ掛かって痛かったが、気遣いを感じる優しい手つきだった。顔から水と一緒に滴り落ちた汚れが川に溶け消えていくのを、俺は黙ったまましばらく眺めていた。


「なんで……」


「なんで助けるのか、ってことか?」


 川のせせらぎが、夕暮れの静寂に心地よく響いている。


「お前と同じくらいの年の息子がいるんだ」


 エドワードの目が、少し遠くを見つめた。


「もし、あいつがお前と同じ立場になったら、と思うとな」


「でも、落ち人は」


「危険だという認識はあるさ。救出任務の時に、カイルの村を見ているからな。それに過去の例を見れば、警戒するのは当然だ」


 エドワードは川の水を手ですくい、自分の顔も洗った。


「だが、お前はまだ何もしていない」


「まだ、ですか」


「そうだ」


 エドワードが立ち上がる。


「俺は占い師じゃない。お前が将来どうなるかは分からん。だが、少なくとも今のお前は、少し駄々をこねただけのただの子どもだ」


 その言葉に、少しだけ救われた気がした。「ほら、ばれない内にこれを食え」


 そう言いながらエドワードが差し出してきたのは大きな肉が挟まれているサンドイッチだった。何かの罠かもしれないと思ったが空腹には勝てず、思い切りかぶりつく。しっかりと味の沁み込んだぶ厚い肉が今まで食べてきた何よりも美味しく、食べきるまで無我夢中で口を動かしていた。気がつけば涙がほろほろとこぼれていた。


「おいしい、です」


「だろう。凝ったものは苦手だがそういうのは得意なんだ。息子にもよくねだられる。顔をまた洗え、もう戻るぞ」


 野営地に戻ると、案の定他の兵士たちから冷たい視線を向けられた。


「エドワードさん、何してたんですか?」


「川で顔を洗わせただけだ」


「エド、落ち人に甘い顔を見せるなよ。標的にされるぞ」


「そうですよ。エドワードさんみたいな人が、真っ先に殺されるんですから」


「エドさんだって知ってるでしょう? そいつらがどんな奴らか」


 エドワードは何も答えず、黙ったまま自分の持ち場に戻っていった。




 その夜の焚き火は、いつもより大きく燃え上がっていた。薪に適した木材が豊富にあったらしく、炎が天高く舞っていた。弾けるような音と共に時折火の粉が舞い散り、暗闇に小さな光の軌跡が描かれては消えていく。


 相変わらず野営地から離れた場所に座らされていたが、川で顔を洗ったおかげか、少しだけ気分が良かった。


 そんな時、またカイルが近づいてきた。


「おい、落ち人」


「またか」


 今度は他の兵士も一緒だった。どうやら、川での一件が気に入らなかったらしい。


「ははは、またか、だってよ」


「エドワードに甘やかされて、調子に乗ってるんじゃないか?」


「そうだな。ちょっと態度がでかくなったな」


 包囲されるような形になり、遠くにある焚火がカイル達に遮られて見えなくなった。わずかな光源でもあるとなしでは大違いで、その心細さに自分の肩を抱いて丸くなった。


「もう、ほうっておいて、たのむから。ほうっておいてよ」


「ほうっておいて? 耳がわるくなったのか、変な言葉が聞こえてきたんだが」


「いやそう言ってたぞ」


「おいおい、少し優しくされただけでもう対等な気でいるのか?」


 カイルの声に苛立ちが混じっている。その足が小刻みに震えていた。


「そんなわけない」


「なら土下座しろ」


「え?」


「土下座だ。迷惑かけたことを謝れ」


 理不尽だった。俺は何も悪いことはしていない。ただ返事をしただけなのに。


 周囲の兵士たちは、見世物でも見るような目でこちらを眺めているだけだった。


「……なんで」


「なんでだと?」


 カイルの蹴りが脇腹に深々と突き刺さった。


「お前が存在してること自体が迷惑なんだよ! 分からないのか!? さっさと死んでくれよ頼むから、なあ!」


 痛みで思わずうずくまる。固い靴底で後頭部を押さえつけられ、何度も地面に顔を叩きつけられる。歯を食いしばって耐えている時に思ったのは、エドワードのおかげで綺麗になったはずの顔や髪はもうとっくに元通りになっているだろうなということだけだった。


「はやく消えろよ」


 憎悪がそのまま音になったのではないかと思うほど、低くおどろおどろしいカイルの声が耳元で囁かれた。恐怖が、一瞬で体を縮こまらせる。


 氷のように冷たいカイルの指先がうなじに触れた瞬間、別の声が響いた。


「何をしている」


 レオンだった。焚き火の向こうから、静かに歩いてくる。


「あ、隊長……」


 兵士たちが慌てて敬礼する。


「何をしていた?」


「いえ、その、少し話をしていただけで」


「話、か」


 レオンの目が、地面に蹲る無様な自分を見下ろした。


「立て」


 痛みをこらえて、よろよろと立ち上がる。


「お前たちは今後、私の許可なく監視対象に接触することを禁ずる」


「しかし隊長」


「カイル、命令だ」


 レオンの一言で、兵士たちは渋々ながら散っていった。カイルだけは最後まで憎悪の目を向けていたが、レオンに一礼をした後、結局何も言わずに立ち去った。


 一人残されると、レオンがゆっくりと近づいてきた。あいかわらず大きい。そばで見上げると、モンスターではないかと思ってしまうほどだった。暗いせいで初めは気付かなかったが、いつもの黒い鎧は身につけていなかった。染色していなさそうなシンプルな色の麻のシャツとズボンで、天幕で休んでいた格好のまま慌てて飛び出してきたように見えた。


 鎧のせいでごつく見えているのかと思っていたが、鎧を脱いでも腕や足は子供の胴体ほど太く、胸板は信じられないほど厚かった。素肌には薄暗くてもわかるほどの深い傷跡がいくつもあり、レオンのこれまでの戦いの激しさが見て取れた。


「怪我の具合はどうだ?」


「だいじょぶです」


「嘘をつくな。報告を受けている。かなり衰弱しているそうだな」


 レオンの声に、わずかに心配するような調子が混じっていた。しばらく黙ってこちらを見つめていたが、やがて小さく舌打ちをした。


「ミリア」


 レオンが焚き火の方を振り返って声をかける。


「はい」


 金髪の女性兵士が立ち上がった。以前見かけた俺と同い年くらいの幼い兵士だった。地球にいたらまだ中学校に通っているぐらいの年頃だ。


 ミリア、と呼ばれた少女が怪訝そうな顔でこちらに近づいてくる。


「こいつの治療をしてくれ」


「え?」


 ミリアが困惑したような表情を見せる。彼女も他の兵士と同じなのかと、ただでさえ暗い視界がさらに暗くなったように感じた。


「隊長、落ち人の治療を?」


「監視対象だ。死なれては困る」


 レオンの声は冷静だったが、どこか言い訳めいて聞こえた。


「は、はい! 分かりました」


 ミリアが傍に寄ってくる。他の兵士たちがざわめき始めた。


「おい、マジかよ」


「落ち人の治療なんて」


「隊長の命令だ」


 誰かが諭すような声で言うと、兵士たちは黙り込んだ。


 ミリアが膝をついて、怪我の様子を確認し始めた。


「酷いですね」


「……いいの?」


「はい? 何がですか?」


「俺の治療を拒んでもあの人はあんたを罰したりしないよ、あいつらも結局追い払うだけだったし」


「はあ」


「だから、俺を治療する必要なんてないってこと」


「ああ、私が嫌がっていると? それは誤解です、ぜったいに治療の許可なんておりないと思っていたから驚いただけです。一般兵にはカイルさんのような被害者が大勢いますから」


 少女の声は思いのほか優しかった。でも


「俺じゃない。俺は何もしてないし、誰かを傷つけたりもしない」


「そうですね。だから隊長も治療を命じたのだと思います。……カイルさんたちを止められなくてごめんなさい。おかしいですよね。あなたが悪いわけじゃないってみんな、それこそカイルさんたちだって、わかってるはずなのに」


 傷の周りを濡れた布巾で丁寧に拭って、力なく微笑んだ。「『癒しの光』」


 ミリアの手が暖かい光に包まれ、その光が傷に染みわたるように広がっていく。光が消えたころには痛みが和らいでいた。


「一度で全部は治せませんが、少しは楽になるはずです」


「……ありがとう」


「いえ、仕事ですから」


 少女はこちらの目を見ながら微笑み、俺の体についた泥を軽く払った。同い年くらいの子に労わるような視線を向けられ、急に自分が情けなく感じた。眼を逸らすと少女は何も言わず立ち上がった。


「隊長、応急処置は終わりました。自己治癒のスキル持ちだと聞いているので、これでおそらく問題ないはずです」


「そうか。ご苦労だった」


 レオンは周囲に目をやり、「皆も早く休め。明日の道も険しいぞ」そう言って去っていった。


 一人寂しく寝転がり瞼を閉じていたら、ふと先ほどのレオンの様子が瞼の裏に浮かんだ。距離を置かれていて常に助けてくれるわけではないが、完全に見捨てられているわけではないようだった。


 そして、エドワードやミリアも他とは違うようだ。落ち人に対してあまり恨みがないのか、それとも陽翔という人間をそのまま見てくれているのか、どちらなのかはわからないがあの二人は俺をただの人間として扱ってくれていた。


 全員が敵なわけじゃない。


 それが分かっただけでも、少し心が軽くなった。

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