1-2
剣道部の部室は道場の横にひっそりと佇んでいる。道場は剣道、柔道、空手部が使っていてそれぞれに部室が割り当てられている。女子は二階のようで、会長は迷うことなくずんずん進んでいく。
階段をちょうど上り切ったところで、突き当たりの部屋にだれかが入っていくのが見えた。
「ジャストタイミング。文芸部で時間調整した意義があった」
どうやら今のがお目当ての剣さんのようだ。
剣道部の部室前まで行くと会長が鉄扉を叩いた。扉には磨りガラスが付いていて中の様子は覗えない。
「剣道部の剣さん、いますかあ。いますよね、入るとこ見ましたよお」
しばらく待ったが返事がない。会長がもう一度叩くと、扉がそっと細く開いた。その隙間から今日見かけた剣さんの顔が覗いた。その様子がどことなく周りを警戒する小動物のように見え、王子の卵と称される堂々とした態度はなりをひそめている。
「王野会長でしたか」剣さんは扉を全開にし、わたしたちを部室に迎え入れる姿勢を見せた。「すぐに出られなくてすみません。体が痛くて思うように動けなかったんです」
「大会前らしいけど、大丈夫なの?」
会長が神妙な顔で問うと、「はい、おそらく。試合になるとアドレナリンが出て痛みを忘れますから。学校に泥を塗るような真似はしないのでご安心を」
「そんなことより剣さんの体のほうが大事だからむりはしないでね」
会長にも人を慮る心を持ち合わせていることに静かに感嘆した。その優しさを少しでいいからわたしに向けてほしい。そうすればわたしは今頃ここにはいなかったのに。
「中に入ってもいいかな。話があって来たんだけど、剣さんは楽な姿勢で構わないから。あ、こっちは宇田見紗枝さん、一年生。わたしの補佐役みたいなもの。同じ一年生が居たほうが緊張しなく済むかと思って連れてきた」
会長の補佐役になった覚えはこれっぽっちもない。事を荒立てたり、無駄な時間を使う気はないから会長を一睨みし、剣さんに会釈した。
「中ですか。ここではだめですか」
「うん、中がいいな。立ち話にしては長すぎるけど、すぐに終わるから」
剣さんは少し考え込んでから、「大丈夫ですよ。ちょっと暑いですが、どうぞ」
剣さんが扉を全開にし、すぐ部室内に引っ込んだ。素早い身のこなしで一個だけの窓をこちらも全開にし、扇風機をつけた。
わたしと会長は部室に入り、扇風機の風が当たらないように扇風機の真後ろに並んだ。
剣さんは大儀そうに木製のベンチに腰を下ろした。筋肉痛というには大袈裟すぎる動きに怪我を心配したくなってしまう。
「それで、話というのはなんでしょうか」
会長が訪問の理由を説明する間、わたしは暇で部室内を観察し始めた。普段は教室と文芸部の部室にしか行かないから興味深かったのだ。
部室は畳敷きで四畳とお世辞にも広いとは言えない。両壁にロッカーが三つで合計六個あって、それぞれダイヤル式に鍵が付いている。道具類が嵩張る関係かロッカーは大きく圧迫感を与えている。床は乱雑に散らかっている。防具や竹刀が置かれているのではなく、スナック菓子の袋、コンビニスイーツの空き容器、スプーンやフォークといったものだ。食器類は当然洗われておらずよく虫が発生しないものだと感心する。スプーンやフォークはプラスチックではなく金属製で製菓研あたりから拝借したものだろう。極めつけは……。
わたしの視線に気がついたのか剣さんがさっと立ち上がり、小さな箱をベンチの下に蹴り入れた。そんなことをすれば却って目立つし、会長に気がつかれないことに祈るべきだった。
会長を横目で見ると一瞬だけ眉をひそめたかのように思えたが、何事もなかったかのように話を続けた。
わたしが見たのは煙草の箱だ。種類等の知識はないが、間違いなく煙草だ。剣さんの行動がそれを証明してくれている。それは、剣さんがわたしたちを招き入れるときに窓を開けて扇風機を点けたことからも言える。この寒い日にそんなことをする必要はないはずだ。ただ、分かりやすく匂いはしていないことから直前まで吸っていたわけではなさそうだ。どうやら部室に染みついているかもしれない異臭をケアしたといったところか。
きっとライターも探せばその辺に転がっているかもしれない。が、控えておこうと思う。
「……じゃあ、当日はよろしくね」
「了解です」
わたしが思考に耽っている間に話し合いは進み結論が出たようだ。剣さんは了承したようで、これで会長の面子が保たれつつわたしが駆り出された甲斐があったというものだ。会長に面子なんてものがあれば、だが。
剣さんがわたしにだけすこし鋭い視線を送ってきたが意に介さず剣道部の部室をお暇した。会長と一緒にホームに戻りわたしは開口一番、「会長はあれを見逃してよかったんですか?」
「あれって?」
これですよ、と言ってから人差し指と中指を二本立てて喫煙の真似事をした。だれが聞いているわけでもないとは思うが念のためのジェスチャーだ。
「なんのことか分からないなあ」
とぼける会長にわたしは無言で批難の視線を浴びせると会長はわざとらしく肩をすくめて、「まあいいんじゃない。わたしに害があるわけじゃないし。一介の生徒が喫煙――現場を押さえたわけじゃないから疑惑というのが正しいかな――してたってわたしたちには関係ないでしょ。学校の評判を気にしなくてはいけないほど立派な学校でもないし。剣さんの健康が損なわれようと……」
よどみなく喋る会長にうんざりして、「はいはい、長いのでもういいです」
「意外だね、宇田見さんがそんなことを気にかけるなんて。無関心を貫くかと思ったのに。……わたしに接するみたいに」
無関心とは酷い言い草だが当たらずといえども遠からず、だ。
「わたしも会長と同意見で、剣さんの喫煙なんて興味ありません。ただ、会長がそんな意見だったのが意表をつかれたように思えて」
「宇田見さんは本当にわたしのこと分かってないよねえ。好きの反対は無関心なんてよく言うけど、当を得ているかも。生徒会長の仕事を全うしないわたしが目くじら立てるわけないでしょ」それに、と付け加えて、「わたしはけっこう宇田見さんのこと好きなんだけどなあ」
次の日は猛暑日だった。前日との気温差は一〇度以上。わたしは今、放課後の部室で隣の家の少女を読み終えた。暑さによる汗なのか、最悪の後味のせいによる嫌な汗なのか分からないがじっとりしている。掻きむしりたくなるようなこの嫌悪感は今までに体験したことがない。
しばらく呆然としていると会長が入ってきた。会長の訪問が初めて喜ばしいと思えたかもしれない。気を紛らわしてくれる存在だ。
「今日も来ちゃった」
「なにか用でも? 昨日みたいなことは勘弁願いますよ」
「そんなに邪険にしなくても。ただ遊びに来ただけだって。それに今までも厄介事を持ち込んだ覚えはないし」
明らかなツッコミ待ちだとは思うがあえて無視した。どうせ無益な時間を使うだけだ。
しばらく弛緩した時間が流れた。会長は退屈そうにスマホを弄っている。わたしは読み終えたばかりの本をパラパラと捲っている。文を拾い読みするどころか開くのすら嫌だと思わせながらも、どうしてか気になるページを再読してしまう魔力が込められているように思う。
「失礼します」
凜とした声が部室に入ってきた。さっきまでの緩んだ空気がピリッと締まった気がした。
声の主は剣さんだった。その後ろには御山さんが睨むと言っていいような視線をわたしたちに向けている。どうも穏やかな訪問ではなさそうだ、とすぐに悟った。
「王野会長もいましたか。それは都合がよかったです。一緒に居なかったら王野会長を生徒会室からどうやって連れ出そうか今頃困っていました」
会長は間髪入れず、「昨日の件でちょっと、と言えばよかったと思うよ」
「なるほど、その手がありましたか」
基本的に会長の頭の回転は早い。成績も悪くないようだ。だが謎解きとなるとどうもそれがなりをひそめる。わたしとしてはありがたくない習性だ。
「とすると、何の用か皆目見当がつかないんだけどね。わたしも宇田見さんも剣さんとの関わりはないに等しいわけだし」
「単刀直入に行きましょう。まどろっこしいのは好きじゃないので」剣さんがわたしと会長を睥睨して、「煙草の件をチクりましたね?」
全く身に覚えがないから、チクったのは会長ということになるだろう。会長に視線を送ると会長もわたしに視線を送っていた。しばし見つめ合う形となった。
「わたしではないですが、会長の顔を見ると会長でもなさそうですね」
「わたしも同じことを言おうとしてた」
わたしと会長が同時に剣さんを見遣るとそこには憤怒の形相があった。なるほど、人間とはこんな顔ができるのだな、と妙に冷静な感慨を覚えた。「どっちでもいいですよ、こっちは。どちらかなのは間違いないんですから。王野会長か、その手下か」
それは心外だ。手下でも手駒でも懐刀でもない。どうも戦う必要がありそうだ。
「会長かわたしで間違いない、というのはどういうこと? 一方的に決めつけられても困るんだけど」
「いちいち説明しないと理解できない間抜けなの? 喫煙の件で教師に事情聴取されたのが今朝。これまで疑われることは一度もなかった。バレる可能性はなんだ? 今までと違うことは? 簡単でしょ。昨日会長たちが部室にやって来た。煙草の空き箱も見ている。これで分かったか?」
後方でずっと黙っていた御山さんが剣さんにすっとタオルを差し出した。剣さんは黙って受け取り吹き出す汗を拭った。
わたしも暑いし窓を開けようかと思ったが、わたしが我慢すれば剣さんを苦しめられるなら、ととどまった。我ながら陰湿極まりない。
「わたしたちが訪れた後に人は来なかったの?」
会長が苛立ちを隠そうともせず聞いた。
「人は来ていないと思いますよ。話が分からない人ですね、居ないからこそここに来たんじゃないですか」
会長が言葉に詰まったのでわたしが加勢した。
「剣さんが知らないだけで居たかもしれないじゃん。部活中とかにさ」
「仮にそんな人が居たとしても関係ない。部活中は扉も窓も施錠するから中には入れない。窓は磨りガラスで中の様子も見えない。つまりわたしの喫煙は知り得ない」
頭に血が上っているかもしれないが、論理に飛躍はない。わたしたちが煙草の空き箱を目撃した次の日に教師から呼び出されれば犯人は自明というものだ。
「それで、わたしと会長のどちらが犯人か見極めるためにやってきたってこと?」
「そういうことだ。自首するなら大目に見る。今だけだからな」
「そんなこと言われても、わたしじゃないし。一応聞きますけど、会長でもないですよね」
「うん、わたしじゃない。生徒の私生活なんぞどうだっていいからね。ましてや密告する趣味もないよ」
剣さんは舌打ちをした。王子の卵だなんて言って幻想を抱いている人が見たらがっかりしそうだ。
「お互いに罪をなすりつけ合ってないでさっさと白状してください。こっちも暇じゃないんですから」
このままでは埒があかなそうだ。論理的に考えればわたしと会長のどちらかが犯人だが、それは違う。と、すると別の人物Xとでも呼ぶべき人がいるようだ。そのことを指摘すると剣さんは、
「じゃあだれなんだよ」
「さあ。だれかは知らないがだれかがいるんだよ。剣さんが言ったように自明だね」
剣さんは苛立たしそうに腕を組み、わたしと会長の間を行ったり来たりした。昨日は筋肉痛のせいで動きがぎこちなかったが、怒りのせいかそれを感じないでいるようだ。
「じゃあ真犯人を連れてこい。もしそんなのがいればだが。期限は明日の今頃だ。連れてこられなかったら二人を犯人と見なす」
「剣さん、わたしたちにもね、そんな暇はないんだよ。剣さんがさっき言ったみたいに」
会長が油に火を注ぐような発言をすると剣さんは、「拒否権があると思っているのですか? あくまで立場が上なのはこちらです。わたしには竹刀と有段資格があることをお忘れなく」
直接の暴力を示した発言ではない。竹刀で打擲するとは言ってないが仄めかしている。狡く持って回った言い回しだ。文学の世界では好きだが、これはいただけない。
一言も発しない御山さんに「行こうか」と剣さんが声を掛け、部室に静けさが戻った。
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