第五話 喫煙密告犯捜索事件

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 ここ数日は雨が続いている。気象庁の発表はまだだが、ようやく梅雨入りしたように思える。これまで続いていた四〇度近い真夏日から一転、先週からずっと気温は一〇度前半だ。うだる暑さに体がようやく慣れてきたところにこれは正直堪える。クラスを見回してみても、先週は全員が半袖だったのに今は全員が長袖に逆戻りしている。かく言うわたしも寒さに負けてしまい、授業中にも関わらずどこか上の空だ。

 雨が降り続く外を眺めたり、だれも行き交うはずがない廊下を眺めたりと、視線だけは忙しない。

 こういうとき本を読めたらと思うが、生憎そこまで図太くないし、どうしても読みたいわけでもない。

 時計とにらめっこしていると残り五分となった。

 欠伸を噛み殺しぼんやりしているとにわかに廊下が騒がしくなった。とはいっても火事や不審者が現れたような騒動ではなく、がやがやと盛り上がった会話が近づいてきているのだ。どうやら隣のクラスが体育の授業から戻ってきたらしい。この寒い中運動するのはさぞ辛かろう。

 第一波が通り過ぎてしばらくすると今度は二人組が通りかかった。こちらも二人で会話しているようだが、先ほどとは打って変わって常識の範囲内の声量だ。

「あ、王子の卵じゃん。だんだん磨きがかかってるよね」

 隣の柿田さんが呟いた。独り言というよりわたしに話しかけているかのような話し方だ。

「なに、王子の卵って?」

 暇つぶしにはちょうどいい雑談だと判断し囁くように聞き返した。

「知らないの、剣明日香。剣道部の一年生。詳しくは知らないけど、いいとこのお嬢様らしい。成績優秀、容姿は端麗、剣道の腕前は都でも上位。所作はどことなく王子の様。それで王子の卵」

 柿田さんの話にどれだけ信憑性があるのかは疑問だが、いろいろなものに恵まれたまさに天に愛された人間というものは存在するようだ。それだけ持っていれば幼い頃から周りに愛され、自己肯定感が高まり、何事も恐れず挑戦と成功を繰り返す正のスパイラルが発生したはずだ。それが所作に繋がった、と。少し穿った見方をしすぎた。

「で、隣にいるのが」柿田さんの話は続く。「御山さん。下の名前は忘れた。王子の幼馴染みでいつも一緒にいるから付き人とあだ名が付いてる」

 付き人、か。それがますます王子っぽさを加速させている気がする。

 廊下の二人を見る限り王子と付き人、つまり上下関係にあるようには見えない。普通の女子校生、普通の友人関係。噂の渦中というのも難儀なものだ。

「練習しすぎじゃない?」

「大会も近いからね。どうしても力が入っちゃうよ」

「それで体痛めたりしたら意味ないじゃん」

 どうも御山さんが剣さんをたしなめているらしい。御山さんが言うように足が痛いのか、どこか歩き方がぎこちない。

「体育だって適当にやっていればいいのに。そんなに汗掻くほど必死にならずに」

 目を凝らすと顔と首筋に汗をびっしりと流している。教室でじっと座っていると寒いくらいなのに、相当真剣に取り組んだようだ。何事にも手を抜かない、というのは注目の的たり得る要素だと思う。

 剣さんが手に持っているタオルで汗を拭くもすぐに汗が浮き出てくる。汗を拭う動作もすこしカクカクしていて出来の悪いロボットみたいだ。

「なにもかも持ってて内面までいいらしい。後輩には親切で剣道の指導したり、電車で見知らぬ老人に席譲ったり」

「そんな完璧超人がこの学校にいるなんてねえ。しかも同じ学年に」

「一般庶民からしたら羨ましい限りだよ。僻んだってしようがないんだけどさ」

「高嶺の花とはまさにこれのことか」

「そんなだから老若男女問わずモテるらしい」

 老若、は眉唾ものだがモテそうではある。

「SNSアカウントによくDMが来て毎回返信に困るってこぼしてたらしい、と聞いたことがある」

 伝聞に伝聞が重なっていてこれに関しては怪しさが一気に増した。DMなんて本人か本人が見せた相手しか確かめようがないわけで。そのことを言うと、「確かに。でもだれかが鞄にラブレターを入れたところを見たことはある」

 鞄に直接というのはあまりいい気がしないのではないだろうか。鞄なんて私物の固まりみたいなもので、自分の部屋に土足で入られるような、と言うと大袈裟かもしれないが、それに近い感じを受ける。もし剣さんがそういう感性の持ち主だとすると、送り主は儚く散ったはずだ。

 授業終了を告げる鐘が鳴った。いい暇つぶしになった。柿田さんに感謝しつつ教科書類を仕舞い本を取り出した。


 ジャック・ケッチャムの「隣の家の少女」は恐ろしい。圧倒的な暴力に読んでいるこちらの精神が疲弊してしまう。これでもかというくらいの残虐で非人道的な描写が続く。それでも読み進める手を止めることはできない。満身創痍になりながらも進むしかないのだ。精神を削り、気力を奮い立たせる。険しい山に挑む登山者はこういう気持ちなのだろうか。わたしの言葉で語り尽くすことは到底できそうにない。

 読み手に影響を与える書物は本物なのかもしれない。わたしはそれほど影響を受けていないが、若きウェルテルの悩みなんて最たるものだ。

 本を閉じ小休止を入れた。表紙が目に入るのも嫌でそちらを机側に伏せた。まだ半分程度しか読んでいない。これを読み終えたとき、わたしはどうなってしまうのだろうか。

 思えば暴力とは無縁で生きてきた。兄弟姉妹がいたら喧嘩の際にちょっと発生したりするかもしれないがわたしは一人っ子だ。両親からもない。友人関係でも上下関係でもそれとは没交渉だ。だからこそ現実と虚構を区別して読むことができるのだろう。

「お邪魔しまあす」

 タイミングを見計らったかのような会長のお出ましに、平凡な口答えさえ返す気になれなかった。

 会長は定位置であるわたしの正面に座ってからちらりと本を見やり、「また難しいの読んでるの」

「内容は難しくないですよ。読み進めるのが難しいだけです」

「つまり内容が難解なんでしょ」

「そうじゃないんですが。一度読みますか? そうすればわたしの言いたいことが分かりますよ」

 内容を詳らかに説明したくなかった。決して会長を疎ましく思ってのことではない。登場人物の境遇や折檻というおぞましい単語を口にしたくないだけだ。この本でなければこんな気持ちにはならなかったのだろうか。

「いや、いい。本読まないし」

 そういえば、会長の双子の妹である青空さんにディケンズの二都物語を渡したら読みもせずすぐに突き返された。双子はどこまで似て、どこが似ていないのか疑問に思う。青空さんとのことを話してから、

「性格はあんまり似てないんですかね。一方は留年するくらいですし」

「そうだね。わたしは生徒会長やるくらいには真面目で優秀だけど、青空はまあ、うん」

「ところで青空さんはなんで留年したんですか」

 会長は深くため息を吐いて、「ゲーセンのUFOキャッチャーにハマって授業サボってまで通い詰めるようになっちゃって……」

 思いがけない理由だった。もっと放埒な様を想像していたのだが。色恋なんて生易しい表現では済まないような。

「軍資金のためにバイトまで初めて益々学校に来なくなって成績はあっというまに転がり落ちて留年。学校では笑われるし、家は地獄みたいだしで大変だったんだから」

 面白半分で聞いたら思わぬ藪蛇になってしまったようだ。会長の愚痴は止まりそうにない。

「おまけに動画サイトにテクニックを投稿しはじめたり。全然伸びないって愚痴ってたけど、当たり前でしょ。何番煎じだっていう話じゃん。差別化されていないのに凡百から抜きん出るわけないんだから」

「顔出しすればすぐトップに躍り出ますよ」

「青空も同じこと言ってたけど、全力で止めたから! 青空の顔出しとわたしの顔出しはイコールだからね、こればっかりは譲れなかった」

 これは会長が正解だ。この顔が世に広く知れ渡るというのはいい気がしない。会長に強い承認欲求がなかったことに感謝しよう。

 会長の文句は続くがわたしは全然聞いていなかった。端的に言えばうんざりしたからだが、会長はわたしのあからさまな態度に気付く素振りを見せない。

 よく動く薄い唇が止まり、白く綺麗な歯並びが見えなくなった。唇には筋一つなく、本当は彫刻かなにかでできているのではないかと最近は疑い始めている。

 会長はポケットからスマホを取り出し、「はいはい、王野会長だよ」

「どこで油を売ってるんですか!」会長のスマホの音量設定が大きいのか、話し相手の声が大きいのかはっきりと相手が喋る言葉が聞こえてきた。「さっさと剣道部の同意を取り付けてくださいよ!」

「これから行こうとしてたんだって。いきなりわたしが行っても萎縮しちゃうでしょ。そこで同じ一年生の宇田見さんを連れて行こうとしてたの」

 いきなりわたしの名前が出てきてすかさず顔を上げた。会長が目を合わせて肯いた。どんな用件かは分からないが、すでにわたしの約束を取り付けた、とでも言うように。そしてそれに従うのが当然だとでも言うように。

「ああそうですか。信じてませんけど、今回ばかりはお願いしますよ。では」

 有無を言わさず通話が切れ、ツーツーという機械音が虚しく響いた。会長相手にここまで強気に出られる態度に惚れ惚れしてしまう。

「さすがに働きますか。宇田見さん行こうか」

「なぜですか。話の半分も見えてませんが、わたしを巻き込まないでくださいよ。無関係なんですから」

「じゃあ説明するけど」説明されたところで協力しませんよ、と抗議する間もなく会長は、「剣道部や文化系の部が関東大会に出ることに決まって壮行会をやることになったの。生徒が部活動で結果を出すのが初めてだから教師陣が舞い上がってるみたでね。で、剣道部だけ出席の同意が取れてなくて今から直接出向くってわけ」

「なるほど。まるでわたしとは関係ないですね。お仕事頑張ってください、応援しています」

 わたしが本に手を伸ばそうとすると会長がわたしの手を握ってそれを遮った。それから批難する目つきで、「さっきの電話聞いてた? いきなり三年生のわたしが行ったら相手も困るでしょ」

 筋が通らないわけではない会長の口八丁が憎たらしかった。

「どうせああだこうだ言っても無駄なんで、さっさと行きましょうか」

 会長が笑顔になって、「話が早くて助かる」

 この人の顔以外が苦手だと最近思うことが多い。この顔がなければ今の傍若無人ぶりは大方許されていないだろう。会長は遺伝子に感謝すべきだろうし、いずれそのことに気がついてほしいものだ。

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