第四話 たぬきの置物放置事件

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 カフカの流刑地にてを読んでこれはサイコホラー小説の元祖だと思って調べたらそんなことはなかった。どうやらホフマンの砂男がそう言われているようだ。だれかに熱く語る前にインターネットに頼ってよかった。ただ、読んだときに感じたことや考えたことはそのときにしか得られない貴重なものだ。間違いを恐れ内なる熱い想いを語らないのはそれはそれでもったいない。つまり、間違いを恐れず大いに語るべし、ということだ。

 放課後は毎日部室へ行く。その途中でつらつらとそんなことを考えていた。

 部室に入るといつもと違った光景が広がっていた。といっても嵐が過ぎ去ったかのように荒れているわけではなく、会長の背中がそこにあっただけだ。わたしが入ってきても無反応で、こちらを振り向くことすらしない。イヤホンでもしているかスマホに夢中になっているかのどちらかだろう。

 よく見るといつもはさらさらで流れるような髪なのに、今日は少しだけ後頭部に癖がついている。

 そしてもう一ついつもと違うものがある。会長とわたしの定位置にしている机の上にたぬきの置物があることだ。大きさは掌サイズで、寝転がる体勢と、とぼけたような力の抜ける表情が愛らしい。

「なんですかこれは」

 わたしが椅子に座るとようやく会長が顔を上げた。わたしの予想通り、スマホに夢中になっていたようだ。

「たぬき。信楽焼って言うんだって。信楽は滋賀県の地域で……」会長は今まで調べていたであろう知識を披露してくれた。「たぬきは他抜きとも言われてて、商売繁盛の縁起物なんだってさ」

 だからお店の前によくおかれているのか、と蘊蓄に感心しつつ、さてこれはなんでここに置いてあるのかと疑問が頭をもたげてくる。それを聞くと、「さあ。あたしが来たときにはあったよ」

 たぬきの置物を見ながらふと首を傾げた。違和感。なんだろう。懸命に頭をひねるが正体が分からない。テスト中に英単語をど忘れしてそれを必死に思いだそうとする感じに近い。なんだか気持ち悪い。

 会長は興味を失ったのかスマホの世界に戻っていった。

 わたしもこれ幸いと本を取り出した。わたし以外に人がいるのに静かというのは珍しい。これが本来のあるべき姿なのかもしれない。環境音とページを捲る紙が擦れる心地いい音。静寂にわたし自身が溶けていくような錯覚を覚える。目を閉じれば世界と渾然一体に……

「飽きた。なんかおすすめの本でも教えてよ」

 わたしの快感は会長の傍若無人の振る舞いに遮られた。最近はこれくらいで腹立たしいとすら思えなくなっていた。いつものことだ。いつものことだが、波風が立たないわけではない。

「ちょっと選ぶので待ってください」

 わたしは部室の本棚を見回した。これは歴代の部員が部費や自費で買った本が所蔵されている。ただ、数は多くない。おそらく、自費で買って自分の本棚に収めたのだろう。部費で買っても自分のものにならないし、自費で買った物を置いていく人は少ないはずだ。

 本棚は作者の五十音順で並べられている。谷崎潤一郎、チェーホフ、ディケンズ。チェーホフはそこでいいのだろうか。たしかアントンなんとかチェーホフだったから、ア行に置くべきではないか。いや、表紙の作者名はチェーホフとだけだからここで正解かもしれない。

 わたしは本棚に近寄り、ディケンズの二都物語を取り出して「はいどうぞ」と言って会長に渡した。

「どういう内容の本?」

 裏表紙のあらすじを淡々と読み上げた。読んでいないから思い入れもないし、説明すらできない。長ければ長いだけ会長は大人しくなる、程度にしか考えず渡しただけだ。

 会長は気の抜けたように「ふうん」と言って本を受け取った。表紙を見てから裏表紙を見、上辺を覗き込んでから今度は底辺を覗き込むように見た。まるで芸術作品を事細かく点検する職人のようだ。

 観察を終えた会長がようやく本を開き静かになった。それを見届けてからわたしも本の世界に入り込んでいった。

 今読んでいるのはモーパッサンの女の一生だ。内容は題名の通りで、古くさい物語に辟易しつつもさすがはフランスの古典文学、よく分からないがグイグイと読ませてくる。これは読み終わって知ったのだが、解説の書き出しがなんて古くさい物語、でわたしだけの感性でないことに喜びを覚えた。

 会長はしばらくしめやかに読んでいたが五分もせず本をパタンと閉じ、「飽きた」

「どれくらい読んだんですか」

「二ページくらいかな」

「全然読んでないじゃないですか。起承転結の起にすら入ってませんよ、それ」

「本当に面白い本なら、最初のページでのめり込めるはず。でもこれはそれがない。つまり駄作」

 わたしも読んでいないから批難できないが、世界中で読まれている古典に対してなんて傲慢な態度か。たしかに、作者もしくは翻訳者のリズムや文体が合う合わないはある。だがそれは読書家の台詞であって、普段読まない人が言っていい言葉ではない。

 怒りを覚えているわけではないし、呆れているわけでもない。あくまでわたしの考えだ。それを会長に伝えて議論するほど好事家ではない。それは一言、面倒だからだ。

「そうですか。絶対に読まないといけないものではないので、むりはせず」

「じゃあ、そういうことで」

 会長は本を片付けもせず、ちゃかちゃかと部室を後にした。もちろんたぬきの置物はそのままだ。

 これはどうしたものだろうか、と考えても詮ないことだ。そのうち持ち主が現れるだろう。

 本の世界に戻りしばらくして集中力が切れてきたところで先ほどたぬきの置物を見ながら覚えた違和感の正体に気がついた。

 会長はたぬきの置物をだれが置いたのかを気にしなかった。普段の会長ならこれを置いた犯人はだれか突き止めろと言いそうだが、気にする素振りすら見せなかった。体調が悪かったのだろうか。例えば、辛いものを食べ過ぎて、とか。

 まあ、どうでもいいことだ。会長の好奇心に振り回されなかったことについてありがたく思うべきなのだから。会長の様子が少しだけいつもと違っただけの話で、これはお終い。

 すっきりしない気分を引きずりながら部室を後にした。


 帰路、数学の課題にされていた問題集をロッカーに忘れたことに気がついた。今から戻る手間と明日慌てて答えを書き写して体裁を整える手間とを天秤にかけ、戻ることにした。わたしは真面目な人間ではないから写経がよくない、とか考えているわけではない。焦る時間が嫌いなだけだ。

 そんなことを考えながら自分の教室に向かっているといつもと雰囲気が違うことに気がついた。普段馴染みがない特別教室が並んでいて、違う階に来てしまったことに気がついた。会長と同じようにわたしもどうかしているらしい。

 階段に引き返そうとするところで、三つ先の教室の扉が開き、生徒が出てきた。会長だ。あの横顔を間違えるはずがない。

 声をかけるべきかどうか迷っているうちに、会長はこちらに気がつかずに背を向けて走り去った。走ってなびく髪の毛とそれに反射する日の光にしばらく目を奪われた。

 会長が廊下つきあたりの階段に姿を消したのと同時に我に返った。会長を追いかける必要はない。用もないし、どうしても無駄話をしたい仲でもない。

 ただそうはいっても、放課後の人気のない教室で会長がなにをしていたか気になるのが人情というものだろう。会長が出てきた教室にそっと足を忍ばせて近づいた。足音を消したのは念のためだ。もしかしたら会長が逢瀬を重ねているかもしれない、と思ったからだ。

 人の秘密を覗き見るような淡い期待を胸に抱きながら扉をそっと開けて隙間から伺うと、なんてことはない、中は人一人いない。ちょっとだけがっかりした。

 ただ、おかしな物はある。たぬきの置物だ。部室に置いてあったのとおそらく同じだ。わたしは扉を開けたぬきの置物がある机まで歩いた。たぬきの置物をすがめて観察した。予想通り今日見たのと同一のものだ。とすると、部室にたぬきを置いたのも会長ということになる。

 そうか、と独りごちた。だから会長はたぬきの置物に興味を示さなかったのか。犯人は会長で、本人には自明のことだから。まあ、意図は分からないが、それは会長に聞くだけのことだ。これまでの経験からすると、いつか会うはずだ。そのときにでも聞き出せばいい。

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