第9話~第10話 ハッピーエンドの続き
「……はぁ」
溜息をつく。横たえた身体を一層ベッドに沈み込ませた。身体がひどく重い。当たり前だ。食事も碌に取らないでいるのだから。馬鹿だとは思う。それでも、これでいいのだとも思えた。
もう一度深く溜息をついて意識を切り替える。事件は無事に収束したのだろうかと考えて、そういえば手紙は無事に届けてもらえたのかが気にかかった。彼女なら大丈夫だろうと根拠のない自信はあったが、もしそれが外れていたとしても確実に届けられることは間違いない。疑わしい人物の残した手紙を証拠として扱わないはずがないだろうから。
手紙の内容は、ただの世間話。何の証拠にもならない。でも、彼なら気が付いてくれるだろうから。何でもない季節のあいさつ、紅茶のお礼、世間話……そして途中に織り交ぜた、日記の話。日記の話だけ彼にわかる様に嘘を織り交ぜたから、きっと違和感を覚えてくれたはず。ゲイリー様の家には捜索が入るだろうけど、それで見つけてもらえなかったら困るから。
あの日記に俺が知っていること全部を書いておいた。集まった貴族たちの名前も、交わされた会話の内容も、俺が知ることのできたことを、出来るだけ。そして最後に、ゲイリー様の名前と俺の名前も。自分の身を守ることだけは得意だろう貴族たちが逃げられないように、会合の日時も一回一回残して。俺にはもう何も出来ることはないけど、少しでもあの人の助けになればいい。俺があの人に残せるのは、あの日記だけ。残れるのは、あの、日記だけ。
ぼろりと涙が零れる。この部屋に軟禁…、医師たちは治療の為だというけどきっとそれだけじゃないだろう。治療という名目で事実上はただの軟禁だ。しかもその対象はベッドの上から動けないのだから好都合この上ない。とにかく、この部屋から、ベッドから動けなくなってからというもの、俺はすぐに泣くようになってしまった。おまけにこれがなかなか止まらない。悲しいないわけじゃないけど、でも、泣きたいほどじゃない。仕方ないと諦めているし、悔いもない。なのに。
あの人にはもう二度と会えない。ただその事実が俺の胸を締め付ける。
彼はどう思っただろうか。貴族たちの味方だっただと知って失望しただろうか。嫌われて、しまっただろうか。どうせこのまま捕えられてしまうのだから今更そんなこと関係ないのだけど。それでも嫌われているのは、少し、いや、大分辛い。いつまでもぐるぐると考えて、また一粒涙が頬を滑り落ちた。
手紙を渡したことも、日記を残したことも、全部彼への最後の恩返しだ。あれによって罪が無くなるとは考えていない。計画を全部知っていたのは日記を見れば一目瞭然だし、それを止められなかったのも誰にも告げなかったのも事実だ。俺が怖かったから。話しても誰に信じてもらえるのかと、話して、それに貴族が気が付いて計画が変えられたらと。俺が臆病で、だから、自分が罰せられるのを覚悟で計画の実行を待った。俺の打てる手で確実なのはそれだけだと思ったから。
だから、貴族と一緒に罰せられることに異論は無い。むしろ、彼に嫌われた世界で、誰も俺を認めてくれないこの世界で生き延びろという方が、俺にとっては酷だ。この世界は俺に優しくない。それは、きっと俺のせいでもあるのだろうけど。でも、俺に優しくしてくれたのは、この王都では彼だけだったから。彼がいない世界で、どう生きていけばいいのかなんて、俺にはもう、わからない。
「……い、た」
こんな風に考えていれば、毎度のことのように胃が痛くなる。胃が痛くて身体を丸めれば今度は治り始めた傷の周りの皮膚がぴりりと痛む。痛み止めや胃薬が欲しくても手元にそんなものは無いし、そもそも飲むこともできない。医師が来た時はどうにか俺に薬を飲ませようとしているけど、俺はそれさえも拒んでいた。苦しみたいわけじゃない。それでも、何かを食べるという行為が、何かを胃に入れるという行為が、酷く恐ろしかった。
この部屋に運ばれて、最初はただ無気力になって食事をしなかっただけだった。それでも、いくら無気力と言っても流石に空腹は訪れる。だから、スープだけでもと思って口に運んだ。それが、駄目だった。
胃は何も受け付けようとしてくれなかった。何を入れてもすぐに酷い吐き気が俺を襲って。最初は何も食べないでいたからきっと胃が驚いただけなのだろうと思っていたけど、そうではなかった。身体全部で、食事という行為を拒絶していた。ほんの少しだけ、スープや紅茶と言った液体を入れるだけなら何ともなかった。でも、一定の量を越えるとすぐに身体に拒まれる。わけがわからなくて、でも、どこかでわかってた。
こんな世界で、こんな状況で。彼に、嫌われて。俺はきっと、心のどこかで死にたがってる。死にたいわけじゃない、でも、生きていくことを、望んではいないんだって。
後ろ向きすぎるのはわかってる。それでも、どちらかというとネガティブで、落ち込みやすい俺が、むしろここまで追い詰められて今までこう考えなかった事の方が不思議なくらい。この場所から消えてしまいたくて、逃げ出してしまいたくて、でも俺にその手段は無い。だから、だから。
毒を飲む前にナイフを下さい
(最初からハッピーエンドなんて用意されてないから、)
(あなたを待つことも出来やしない)
この部屋の中で何度昼夜を越えただろう。頻繁に意識が落ちては浮上することを繰り返していたから、それもわからない。食事は相変わらず喉を通らず、身体はやせ細る一方だった。
ただ漠然と、このまま体中の水分が流れ出てしまうのではないか。不意に流れ始めた涙は意思とは関係なくぽろぽろと頬を伝い続ける。無表情で泣いている俺はさぞ間抜けなのだろうと思っても、やはり涙は止まってはくれない。
上半身だけを起こしてベッドヘッドのクッションに凭れていた状態から、上半身すべてクッションに埋もれるように体を捻る。それだけで体がだるい辺り、自分の体が相当弱っているのを実感した。最低限まだ歩くことはできるが、長い時間は無理だろうことはわかる。軟禁状態で、怪我をして、それでこの寝たきり生活だ。ろくに動かしてもいないし動かせもしないのだから当たり前だろう。
涙が伝う感触が些か煩わしいが、それを拭うのすら億劫だ。何より拭っても拭ってもキリがないのだからいよいよ嫌にもなる。すべてを投げ出すように、クッションに突っ伏して目を閉じた。
きっと、もうすぐ終わる。
恐くない訳ではないけど、でも抗おうとは思わない。それはやるだけのことはやったという充足感のようであり、どうしようもないという諦めにも似ていた。頭の中の整理はついていて、ひどくすっきりとしている。感情が綺麗に積み上げられて、整頓されすぎていて、気持ち悪いくらいに。ああ、それでも、それでも。
やっぱり俺の心を占めるのはあの人しかいなくて。許されるなら、いや、許されなくてもいい。一度だけ。たった一度で良いから、最初で最期に、あの人を、
「――……アルヴィン、さま」
あの人の、名を。
初めて音にしたその名前は、少しばかり拙く響いた。クッションに一層顔を埋めて息を吐き出す。一度だけ口にしたかった。でも駄目だ。一度音にしてしまえばそれ以上が欲しくなる。会いたくなる。望んでいないのも事実。でも心の奥底で望んでいるのもまた、事実だから。歯止めが利かなくなる。
「目を開けて、俺のお姫さま」
――――うそ。うそだ。そんなこと、あるはずがない。だけど俺は知ってる。この声の持ち主を。でも、だって、こんなのは夢だ。夢以外にありえないだろう。
ああ、でも。こわくて、目が、あけられない。
夢だってわかってる。だけどそれを信じたくない。本当ならいいのになんて、そんな無謀な願い。そんな事はあり得ない。例えこれが夢だとしても、夢の中ででも、あの人に会えたら、あの人の顔を見てしまったら、俺は。
「遅くなって、ごめん」
いつもより砕けた口調、後頭部を撫でる体温。知ってる、知っている。俺はこの人を知っている。だからこそ、応えられない。
「君のおかげで、加担した貴族たちのほとんどを捕まえることが出来ました。彼も……ハルキ様も、無事です」
何度も何度も、優しい手のひらが頭を撫でる。何度も何度も、ありがとうとごめんを繰り返す。ちがう、感謝されたい訳でも謝罪されたい訳でもない。俺はただ、貴方の愛するものを、貴方の笑顔を、守りたかっただけで。ただの自己満足で。情けなくて、嬉しくて、悔しくて、怖くて、不自然なほど整えられていた感情が、ぼろぼろと崩れ始める。
「君のおかげで、守りきれました。壊されずにすみました。……だけどね、」
優しかった手のひらが、暖かい指先が、離れていく。涙が止まらないのか、止めたくないのか、止められないのか、もう、わからない。
強引に、抱き起こされる。今までにない力強さに俺は息を飲む。掴まれた腕が、腕が回された背中が、何よりも心臓が、熱くて、痛い。
「私……いや、俺が、宰相の立場も、身分も捨てて、ただの俺として。一番守りたかったものが、守れなかった」
目尻に唇を落とされて涙が吸い取られた。反射的に俺は瞳を開けて、彼はしょっぱいなと苦笑いを浮かべて、そのまま俺を覗き込むように距離を詰める。
「随分待たせたけど、こんなに、泣かせたけど」
腕を掴む指先が緩んで、滑り落ちた俺の指にそのまま絡む。一本一本、逃がさないとでも言うようにゆっくりと。絡んだと思ったらまた緩んで、またきつく絡め取られる。
「今度こそ、俺に、守らせてくれないか」
嗚咽が漏れないように噛み締めた唇のせいで何も言えない。震える指先のせいで握り返す事も出来ない。情けないくらいに瞳が揺れて、だけど反らす事さえも出来なくて。身体の間にある空間さえ許さないとでも言うように抱き寄せられて。
「やっと、迎えにこれた。アキト、俺のお姫さま」
空いた手のひらでアルヴィンさまの背中を掻き抱く。止めたいのに、もう悲しくないのに、どうしても涙は止まらなかった。
物語のおわりが、いつだってハッピーエンドとは限らない。
それでも俺はこの人と一緒にいられるこの瞬間が、これ以上なくしあわせだった。
俺にとってはこれ以上ない、めでたしめでたしだった。
末永く幸せに
(物語のおわりは、)
(いつもめでたしめでたしで)
走り抜ける背中に伸ばそうとした腕が中途半端な高さで空を掻く。
「その者を捕えよ!」
陛下の怒声。椅子が派手な音を立てて倒れる。
がしゃがしゃと兵士たちの甲冑の音。貴族たちの罵声。もがく足が床に叩きつけられる。
「手足を拘束して閉じ込めておけ。それと、医者を」
指示をするまでもなく兵士は動く。当たり前な指示を決まり事のように出して、ようやく彼の方へと視線を動かせた。遅い。身体の動きも、脳の動きも、瞬きですら欠伸が出そうなほどに。
辺りを赤く染めた彼と一瞬だけ視線が交錯する。そしてゆっくりと彼の体から力が抜ける。ハルキ様を避けるようにずるりと床に倒れ込んだ。降り注いでいた血とその顔色のせいで、隣のハルキ様の方が余程重症に見える。
たった数歩、それだけの距離を詰めるのにいつもの何倍もの時間を要したように感じた。こちらに投げ出されていた手を握っていつにないその冷たさにつられるように、俺の身体の芯まで冷え込むような心持ちになる。怯みそうになる自分を叱咤して意識を失ったその体に手をかけ、俺の腕に凭れかけさせるようにぐるりと仰向けにさせた。
見る限り傷は脇腹だけのようだ。じわりじわりと染みていく赤色をなるべく視界に入れないようにして傷口を抑える。医療の知識は正直言ってない。これで合っているのかもわからないが、それでもこれ以上血を流させるのは不味いと思った。
「アキト…アキトッ」
彼の立場だとか、俺の立場だとか、そんなものを気にする余裕は無かった。ただ名前を呼んで、どうにかその眼が開かないかと願う事しか出来ない。医者はまだだろうかと傷口を抑えて赤くなった手を見詰めながら思う。
それからは時間の経過の仕方が一定ではなかったように感じた。医者が来るまではやけに遅く思えたのに、医者がアキトを連れていくのはあっという間だった。あっという間に、赤く染まった床と自分の掌だけが俺の目の前に残される。けれどここに留まっているわけにもいかない。動かない頭でどうにか駆け付けたいくらかの兵士と侍女たちに追加の指示を出す。
ハルキ様はいつの間にか部屋の中にいなかった。陛下か医者辺りにでも連れて行かれたのだろう。この部屋の封鎖とハルキ様たちの護衛に、ああこの服も着替えなければ。身体は、いっそシャワーでも浴びた方が早いだろうか。手だけだと思っていたのだが、いつの間にか髪を掻き上げでもしたのだろう。髪や頬にまで血の跡が付いていた。乾き始めて手のひらに張り付いているそれを見詰めながら、俺は自分が立っているのか座っているのかもよくわからなかった。
「まだ目は覚めないのか」
報告書へと目を通しながら陛下が部屋へと呼び付けた医者へと問いかける。年老いた彼は困ったような顔をして一つ頷いた。たった一人といえど兵士が買収されていた故に、今回の事件の調査に関係する人間の選定は慎重に行われた。彼は城仕えの医者の中でも古株で、俺や陛下も小さい頃に何度か世話になった事がある。つまり、信用に足る人物で、だからこそアキトの治療を一手に任せていた。
「生地の厚い洋服をお召しでしたのでそう傷は深くありませんでしたが…意識が戻らないのは精神的なこともあるのかもしれません」
彼はハルキ様も精神的にダメージを受けていることを例に挙げ、彼等は恐らく流血沙汰などそうそうない環境で生きてきたのではないかと推測した。本人の性格もあるのだろうが、目の前で自分を庇った人間の大量出血を見たことによるハルキ様のショックは計り知れない。あれから数日が経ったが、今でも元通りとは言えずに部屋に籠もっていることが多いらしい。
では、自らの身に刃を受けたアキトはどうなのだろうか。どちらの方がより辛いかなどというつもりは無いが、それでも何ともない訳はないだろう。今まで生きてきた世界が平和なものだったなら尚更。
「今は目覚めるのを待つしかないでしょうね。幸い命に別状はないようですから、そう時間はかからないと思いますが」
一刻でも早く事態の収束をつけようと気が急いでいる陛下を落ち着かせるように、努めて穏やかな口調で返す。いかに有能だとしても、王としてはまだ若い彼が必死にこの国を守ろうとしているのはわかるが、仮に今この瞬間にアキトが目覚めたとしてもそう事態は進展しないだろう。証拠が集まりきっていないのだ。
首謀者ははっきりしていても、その全体像がまだ見えてこない。ある程度の目星は付いているがそれも絶対とは言えないものだ。その為に貴族たちの家一軒一軒を家宅捜索するわけにもいかないだろう。それに、城の中で実しやかに囁かれている噂――アキトが奴らの手先であり、ハルキ様を庇ってこちらに取り入ることこそが目的だという、それらを証明する証拠、もしくは反論する証拠もない。どうにかしなければいけない…いや、どうにかしたいと思っても、まだ時間が足りない。貴族たちの杜撰な計画を見るに、もう少し時間をかければ全ては露呈するのだろうと思うが、それでも気が急いて仕方ないのは、本心では俺も同じだった。
と、不意に扉をノックされる音が響く。後に回すように指示を出そうとした所で、徐に陛下が制止の声を上げ廊下の部下を部屋へと通した。
「お話の最中申し訳ありません」
深々と頭を下げるのは、諜報部の者だった筈だ。今は至急情報を集めるようにと指示を出していたが、何か進展があったのかと思わず息を呑む。
男は自分の後ろに控えさせていた侍女の方へ視線を向けた。その侍女にはなにやら見覚えがあると思えば、そういえばあの日あの部屋にいた侍女の内の一人だと思い当たる。彼女がどうかしたのかと視線で先を促せば一度礼をして侍女が手に持っていた紙を持ち上げた。
「あの日…、これをアルヴィン様へ渡してくれ、と」
彼から、と続けられた言葉に目を瞠った。一度諜報部の方で何かしらが隠されていないか調査されていたのだろう。俺の元へ届くのに時間がかかったのは仕方ないとわかってはいても、どうにかして彼から直接貰う事は出来なかったのかと複雑な胸中をどうにか押し込める。
それなりに上等な質の手紙を受け取りそれを広げる。内容は、登城の際のことばかり。思い出を語るようなそれに、冗談にもならないが一瞬遺書を読んでいるような気分になる。そして、やはりあの怪我は予想の範疇だったのではないかという疑問も。そこから文面はそれらへの感謝と、機会があったら次は自分が持て成したいという――恐らくこれはただの社交辞令だろうが、そう繋いで、終わりにいくつかの言葉を添えて手紙は締められた。内容はあってないようなものだ。普段城で話していることとそう大差はない。では、何故それを手紙にしたためたのだろうか。やはり、遺書のつもりで、と考えが至りそうになった所で、手紙に二枚目があることに気が付く。
追伸、と書かれたそれは酷く短い。何か書き忘れたことがあって急いで付け足したのだろうかと思いながら文字を追えば、「先日いただいた日記帳は大切に使わせていただいています」という、ただそれだけのことだった。しかし。
「……日記帳?」
「手紙の内容で何か気になる所でも?」
日記帳という単語で俺に思い当たるものは無い。一瞬アキトの勘違いかとも思ったが、このタイミングで渡された手紙に残された違和感が、ただの勘違いで終わることは考えにくい。だとしたらこれはきっと、彼からのメッセージだ。
「押収した物の中に、彼の……アキトの日記帳はありますか?」
残された手紙一つでどこまで事態が進展してくれるかはわからない。けれど、アキトに賭けて悪いことになるとは思えなかった。
「アルヴィン、さま」
これ以上なく甘く、苦く、消えてしまいそうなか細い声。初めて呼んでもらえた名前に、思わず頬が緩む。けれど、記憶にあるものより幾分も細くなった肩を目にしてそれも消えた。
音を立てないように手にした資料を扉の脇にある棚に乗せる。資料の内容は、アキトが日記に記した貴族たちの家名をリストアップしたものと、それぞれの家の関与と癒着、そしてアキトの今までの経歴。つまるところ、今回の首謀者たちの罪状と、アキトの無罪を証明する証拠たちだ。これがあるから、アキトのお陰でやっとここまで辿り着けたから。もう大丈夫なのだと、君を責めるものも罰しようとするものもいないのだと伝えたくてここまで来た。それなのに。
報告は受けていたはずだ。肉体的にも精神的にも食事を受け付けないことも、そのせいで薬を思うように服用出来ずにいることも、日に日に身体が弱り、体力が低下しているだろうことも。けれど、それは全て文面か口頭で、だからこそここまで重症だとは思っていなかった。この証拠を持って来れば、安心してくれると、笑ってくれると信じていた。でも、そうではなかった。
当たり前だ。いくら部屋に籠もっていても、侍女たちや兵士たちの間の、城中の空気が張り詰めているのを感じない筈がない。今まで散々見てきたはずだ。彼がプレッシャーに弱く、緊張にも弱いことなんて、それですぐに体調を崩していたことなんて。その度に自分が介抱してきたはずなのに。
足音を殺してベッドへと近づく。前から華奢だった体躯は一層厚みを無くし、いっそ不健康でもある。初めて会った日から随分と伸びた髪がベッドに広がっているのが、細い身体と相俟って不意にどこかの姫君のようだとすら思った。ジュリエット、という単語が頭を掠める。
「目を開けて、俺のジュリエット」
誰が言い始めたのだったか。ハルキ様が民衆の間でお伽噺から取ったシンデレラという渾名で呼ばれているのに対をなすように、誰かがならばアキトはジュリエットだと呼び始めた。噂好きの侍女たちの間でアキトは貴族に無理矢理囚われているのだ、だとか、俺がよくアキトを介抱していたことから本当は俺達は親密な仲である、とか、その二人はお互いの身分のために引き裂かれているのだ、とかそんな事が囁かれているのがその呼び名の原因だろうだろう。
…本当は、囁かれるように情報を流した、の方が正しいのだけれど。
それでも俺は君を仮死状態にするつもりもなければ、毒薬やナイフを用意するつもりもない。
「遅くなって、ごめん」
細くなった身体。少しばかり体温も下がっただろうか。肌もいくらか白さを増しているように感じる。
髪に指を絡めながらそっとその頭に手のひらを添わせれば、少しだけ彼の肩が震えた。喉元がひくつくのが見えて、このまま泣き続けていつかあの瞳が溶けてしまうのではないかとすら思えた。
儚さを増した身体を壊してしまわないように。それでも逃げられないように、腕を引き背中に腕を回して抱きしめた。やはりその体温はいつもより大分冷たい。
やっと真っ直ぐに見詰められた顔に少し安心して、その目尻が赤く染まっている事に胸が痛む。そこを労わる様に口付けをして、塩気のある味に苦笑いしながら彼へ言葉を重ねた。ただの自己満足かもしれない。彼に届かないかもしれない。わかっていても止められなかった。やっと、本当の意味で彼に触れられたから。
「随分待たせたけど、こんなに、泣かせたけど」
しなやかな指に自分のそれを絡めてはほどき、もう一度きつく引き寄せるということを繰り返す。嫌なら、手を放せばいい。今しか与えられない猶予だけど、触れないままでいる事は今の俺には到底無理そうだったから。
「今度こそ、俺に、守らせてくれないか」
握り返されずに震える指先が、動揺を隠さない瞳が、まるで俺を拒んでいるように思えて二人の距離を詰める。どうか拒まないで。受け止めて。自信がないわけではないけれど、弱っている時に付け込んで卑怯だという自覚もある。スマートさなんて本当は欠片もない。そう見えるように振舞っているだけで、本心では彼が欲しくて仕方のないただの男だ。それでも、彼を手に入れるのに手段を選んでいる余裕なんてない。
俺を選べ、そう叫びたいのを喉元で押し込めて、彼に選択肢が残せるように、だけど俺以外なんて選べないように、言葉を紡いだ。
「やっと迎えに来れた。
俺のお姫様」
背中に伝わる微かな温もりに、少しだけ色を変えた表情に、俺からも一粒だけ涙が零れて、アキトの頬でそれらは混じって滑り落ちていく。それを見届ける暇もなく、俺はアキトとの距離をゼロにした。
ハッピーエンドの続き
(俺だけのお姫様との物語は、)
(やっとここから始まるのだ)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます