番外編 ごちそうさまです



 最近は少しずつだけど毎日三食食事をとることにも慣れてきた、と思う。用意される量は以前と比べるまでもないくらい少ないし、しかもそれすら残してしまうくらい少ししか食べられないけれど、毎日食べ物を口に運ぶ、という点では進歩だと医者のおじいちゃん先生に言われた。

 それにしたって料理を残しても軽くたしなめられるだけで怒られたりしないし、すこしでも気分が悪くなるとすごい勢いで横にされたり医者を呼ばれたり…とにかくお城の人にはそれはもう甘やかされている。これでいいのかなと思うけど、先日お見舞いに来てくれた陛下に体調が万全になるまでは存分に甘やかされておけと笑い飛ばされてしまった。話を聞く限り、俺にはなんの罰もないらしい。

 あの日記の内容だけでそうなるとは思えなくて首を傾げていたら、どうやらゲイリーの屋敷にいた使用人たちが揃って俺の無実を訴えてくれたらしい。彼らだって疑われただろうし、そもそも雇い人がいきなり捕まったのだ。自分の生活で手一杯だろうに。

 嫌われていたと感じていたのは俺だけのようで、本当はそうじゃなかった。迂闊に距離を詰められない状況と、俺の勝手な思い込みでその距離が広がっていっただけで、俺が一歩でも踏み出せていたら少しは交流を持てたかもしれなかったのだ。そう今更考えても仕方ないのだけど。でも、嫌われていたと思っていた相手が自分を守ろうとしてくれたと聞いて、胸の内がどうしようもなく暖かくなった。


 だからこそ、ちゃんと食べて早く元気にならなくてはと思う。そのためにご飯もなるべく残さないように食べなくては、と思う。思う、のだけど。


「ほら、アキト、口をあけて」

「あ、の…アルヴィンさま」

「あーん」

「いえ、あの、自分で」

「あーん」


 この状況はなんだ。

 宰相としての丁寧な口調ではなくプライベート時の砕けた口調で俺にスプーンを向けるアルヴィン様はひどく楽しそうな笑顔を浮かべている。楽しそうなんだけれど、逆らえない笑顔だ。


「あ、あーん…」


 おずおずと口を開けばそっとスプーンが口元に差し出される。いつもながら、とても美味しいスープだと思う。ただ、緊張と羞恥でちょっと舌が馬鹿になってるけど。

 そもそも自分で食べられるのになんでこんなことになっているんだろう…。相変わらず食事を残しがちな俺を心配して食事時に顔を見に来てくれたり、時間が合えば一緒に食事をとることは今までもあったけど、こんな、手ずから食べさせようとしたことなんて今まで一度もなかった。訳がわからなくてアルヴィン様をどうにか止めようとしてもその笑顔に押し切られて俺はまた口を開いてしまう。

 こんな、幼子みたいで、雛鳥みたいで恥ずかしいのだけど。アルヴィン様は何が楽しいんだろう。


「アルヴィンさま、もう…」


 しばらくそんなことを繰り返していれば、やっとスープが半分ほど減ったころだろうか、俺の胃が限界を訴えてきた。まあ、最近は多少無理をしてもそうそう戻したり痛みがしたりなんてことはなくなってきたからもう少しくらい食べられなくもないんだけど、それよりも俺はこの状況からの解放を望んでいた。

 アルヴィン様と二人でご飯を食べているのは、というか、一緒の空間にいられるのはすごく嬉しい。嬉しいからこそ、こんな、あ、あーんとか一方的に俺が何かをしてもらうんじゃなくて、もっと会話をして過ごすとか、別の過ごし方がしたかった。


「お腹いっぱい?」

「はい…」


 食事の減り具合と俺の顔を見比べながらアルヴィン様は声をかける。そのまま少しだけ悩んでそれじゃ仕方ないなとアルヴィン様は困ったようにまた笑った。

 やっと解放されるのだとほっと息をついて時計を見上げればそう時間は経っていなかった。体感では実際の何倍にも感じたのは、やはり緊張のせいだろう。スプーンを向けられるたびにぎこちない動きをする俺をアルヴィン様は穏やかな笑みで見つめていた。

 その視線にまた恥ずかしくて動きが止まるという悪循環に気が付いていたのだろうか。…気が付いていてやっていたんだろうなぁ。でもそれももう終わりだと思うと途端に安堵で体から力が抜けて、ずっと火照りっぱなしだった頬にそっと手を当てる。顔も真っ赤で、そんなこと目の前にいるアルヴィン様にはバレバレなんだろうけど、やっぱり恥ずかしかった。


「最後に、もう一口、ね」


 思わず、え、と声が漏れる。

 さっきまでと同じようにまたスプーンが俺に差し向けられるが、もう終わりだと思って安心しきってしまっていた俺は同じようにまた口を開くことができなかった。通り過ぎていた羞恥心がぶり返して頬に勢いよく熱が灯る。

 ほら、早く、とくすくすと笑うアルヴィン様に急かされてようやく薄く唇を開いた俺は、さきほどよりも一層のろのろと唇をスプーンにあてる。流し込まされたスープをこれまたゆっくりと飲み干せば、アルヴィン様はよくできましたと言って俺の頭を撫でた。

 本当に今日は何がしたかったんだろう。こんなに甲斐甲斐しくされなくても食事くらいもう一人でも大丈夫なのに。そりゃ、構ってもらえて、面倒を見てもらえて、嬉しくないわけではないけど。


「それじゃあご褒美」


 視線を下に向けていた俺に突然降り注いだ言葉に驚いても、今度は声すらあげられなかった。正確には、その声は呑みこまれてしまったのだけど。

 零距離になった唇に俺は眼を見開くことしかできなくて、触れ合った唇越しにまたアルヴィン様が笑ったのを感じた。そのままやわやわと、舌を入れるでもなくただ触れるだけでもなく、唇で唇を食むように何回か角度を変えてアルヴィン様は口づけを繰り返す。俺はと言えば驚いて自分の掌を握りしめることしかできなかったのだけど、その掌さえアルヴィン様の手に絡めとられてしまえばもう何もできない。段々と苦しくなってくる息に薄くしか開けていられなかった瞼をそっと閉じかけたその時、見計らったようにアルヴィン様は唇を離した。離れ際、おまけにというように唇をその舌でぺろりと舐めあげられて俺は思わず声を洩らしながら体をぴくりと震わせる。

 距離ができたことでようやく視線を合わせられたアルヴィン様は、とても上機嫌に食事を片づけようかと笑った。



ごちそうさまです


(それはどちらのセリフなのか)







 今日も平和だ。

 見渡す景色に異常がないことを確認して俺は頷きながら呟いた。後ろを歩く同僚がその呟きを拾って、そうだなぁと呑気に返すのを見て余計にそう思う。だからと言って仕事に手は抜けない。というか、必死になって勝ち取った中庭周囲の見回りの仕事なのに手を抜ける筈がなかった。

 ここ一カ月ほどこの中庭の見回り当番の希望者の倍率は前例がないほど膨れ上がっている。それこそ、本来なら一月ごとに持ち場がローテーションするはずの当番が一日ごとに変更されるくらいには。別に何か不味いことがあった訳じゃなく、その原因というのはやはりとても平和的なものだのだが。


「あ、おい!来たぞ!」


 さっきまではのんびりとしていた同僚が急に緊張した声をあげる。俺もその声に釣られて背筋を伸ばすと、中庭の向こうに伸びる扉に目を向けた。

 ゆっくりと開かれた扉から最初に姿を現したのは無表情な侍女、そして、黒髪を風に揺らすお二人。最後尾には宰相のアルヴィン様が続く。陛下は執務だろうか、お姿は見えなかった。


 ハルキ様だけなら何度かお見かけしたことがある。けれどアキト様は件の騒動のせいか未だに公の場に姿を見せることも、ましてや城内でお見かけすることすらほぼない。

 そのアキト様が一日一度散歩に訪れるこの中庭に、そのお姿を一目見ようと兵士がこぞって担当になりたがるのも仕方のないことだった。

 俺はしがない一兵士でしかないが、つい最近までこの城内が荒れていたことくらいは知っている。その解決に繋がった騒動のことも。アキト様の過去なんかは何も知らない。だけど、彼が身を呈してハルキ様を庇ったという話は城内では公然の秘密として扱われていたし、何よりアルヴィン様がアキト様を庇い、守っていることが俺達兵士にとっての答えだった。


 ハルキ様に手を引かれたアキト様が中庭へと足を踏み入れる。頭を下げていた庭師達は職務に戻るようにというアルヴィン様の指示を受けて、そわそわと身なりを整えたり手持ち無沙汰気味に手元の植物を手のひらで撫でる素振りをしてはアキト様の方を伺い見ていた。

 立場的にということもあるだろうが、病み上がりのアキト様にストレスがかかるような事は避けるようにという命のお陰か、無闇にアキト様に近付こうという者はいない。それでももしかしたらあちらの方から話しかけてきて下さるのではないかという期待に、どうにも落ち着くに落ち着けず皆せわしなく視線をあちらこちらにさまよわせている。


 そのアキト様はというと、まだお部屋での療養が多くあまり外に出ることが少ないからだろうか、手のひらで目元に影を落としながら眩しそうに空を見上げているようだった。日の元に出たことで、ハルキ様の健康的な肌とは対照的なあまり日に焼けていない肌が眩しく感じる。日に透けない黒髪との対比も余計に強調されているようだった。

 強い日差しに目も慣れてきたのだろう、四人はゆっくりと噴水の方へと歩き始めた。あそこなら周りにベンチもあるし場所によっては木陰にもなる。ハルキ様はアキト様の周りを右へ左へとせわしなく移動しては庭の花や木を指差してあれこれと笑顔で語りかけていた。


 ベンチに向かう途中で今までアキト様との会話に夢中になっていたハルキ様が、何か思いついたように庭師に話しかけた。声をかけられた庭師は端から見てわかるほどに体を硬直させ緊張していたが、何とか会話を成立させているらしい。庭師の返答に今までハルキ様の後ろで会話を見守っていたアキト様が不意に顔を綻ばせた。

 羨ましい、という呟きがそこここから上がるのが聞こえる。俺もそのうちの一人だが、兵士である以上仕事を放棄して近付くわけにも行かないし、何よりアキト様はあまり兵士には近付かれない。庭師とは先程のようなやりとりをされることもそれなりにあるようなのだが、兵士と、となるとそういった話はとんと聞こえてこなくなる。兵士に何か嫌な思い出でもあるのか、それとも単に兵士のそのほとんどが屈強な男達だということが威圧感を与えてしまうのかは定かではないが、とにかく俺達兵士は無理にアキト様に寄っていくことはしない。…いずれ距離が少しでも縮まればいいなぁというのは、兵士一同の願いである。


 庭師との会話を終えられたのか今度こそアキト様達はベンチへと腰掛けた。同じようにその横に腰掛けたアルヴィン様はアキト様の髪に指を差し込むと穏やかな手つきでそのまま梳くように指先を滑らせる。心地良さげにアルヴィン様に身を寄せて手のひらに擦りよるアキト様は、まるで飼い主に懐いた猫のようだ。その幸せそうな恋人達の様子に嫉妬するより先にこちらにまで幸福が伝染してしまうのだから、こちらとしてはもう見守ることしか出来ない。

 ただまあ、アルヴィン様の手に頬や首筋を撫でられても拒むことなくぴたりと寄り添っているのを見るのは、なんというか、空気が甘すぎて独り身には辛いというか、思わず視線を逸らさずにはいられないとは俺たち兵士の殆どの苦悩でもある。余談だが。


 不意に中庭に風が吹き込む。肌に浮かんだ汗が冷やされて気持ちがいい。風が出てきたようで、中庭の植物たちもゆらゆらとその身を揺らしていた。

 アキト様の額に浮かんでいた汗を甲斐甲斐しくハンカチで拭っていたハルキ様が顔を上げる。少しの間空を見上げていたようだが、そのまま立ち上がるとアキト様の手を取って立ち上がらせる。風にあたって体を冷やすのはあまり良くないだろうから、そろそろ部屋に戻られるのかもしれない。

 こうやってみると、普段はどう見ても振舞いも顔立ちも実年齢よりも幼く見えるハルキ様が何だかアキト様の保護者のように見えてきて不思議だ。子供が背伸びをして無理に世話を焼いているのではなく、ふとした瞬間にさながら世話焼きの母親のようにアキト様を構うハルキ様の姿は、今まで見ることがないものだった。ハルキ様が母親なら、陛下は父親だろうか。自分で言っておきながら何だが、娘を嫁にやりたがらない頑固親父のように振舞うのが想像に難くない。とは言ってももう嫁ぎ先は決まっているようなものだけど。


 どうやらそのままお部屋に戻られるらしいアキト様たちは、入ってきた扉ではなく今俺たちがいる方の扉へと向かって歩いてくる。近くもないが、そう遠いわけでもない、微妙な距離。…兵士が苦手らしいアキト様が委縮されてしまわれないといいと思いながら、ぴしりと背筋を伸ばし胸を張る。アキト様が怖がらないようにと強張った表情を浮かべないことだけ気を付けて、俺は通り過ぎようとするアキト様たちに敬礼をする。隣で同僚も同じように敬礼をしているが、その表情はいつもより大分緊張しているようだった。まあ俺自身も人の事を言えるような顔をしていたわけじゃないが。

 アルヴィン様と侍女は慣れたように俺達のそばを通り過ぎ、ハルキ様も俺達に軽い目礼をしてからアキト様の手を引く。アキト様は、となるべく睨んでいると思われないように、お世辞にもいいとは言えない人相の顔を少しでもマシになる様に務めながらそっと視線を向かわせる。眼があってしまったアキト様はぴくりと肩を震わせてから、少しだけ黙り込む。やはり怖がらせてしまったようで少しばかり落ち込みそうだ。


「あ、の」


 アキト様が細く声をあげられる。視線は俺達兵士の方を向いたままだ。怖がらせる以外にも何かしてしまったのだろうかと一瞬身体を固くする。けれどアキト様は焦ったような戸惑ったような顔つきで二三度口を開閉しているばかりだ。何かご用でしょうか、とこちらから声をかけるべきだろうかと俺は思案しはじめる。


「その…いつも見回り、ありがとうございます」


 俺と同僚を交互に見ながら口早にそう言ったあと、アキト様はうろうろと視線を彷徨わせて早足で扉をくぐっていった。それをぽかんとした表情で見送った俺達は、周りからどれだけ間抜けに見られていたのだろう。

 それでも、強張った表情で、やはり兵士は苦手だろうにアキト様が俺達に声をかけてくれたことが嬉しすぎて、しばらくは表情を引き締めることが出来そうになかった。同僚はアキト様がいなくなった瞬間からその喜びをどうにもしがたいらしく俺の背中をばしばしと手のひらで叩いてくる。いい加減痛いので止めてもらいたい。


 アルヴィン様が守るから。ハルキ様が親しげに接するから。陛下が気にかけているから。それも理由だ。けれどそれだけではない。

 小さなあなたの積み重ねてきたもの一つ一つの暖かさが俺達に伝わって、だから、俺達は皆あなたが好きなんだと。ここにはもう、あなたの敵はいないのだと。



誰かに愛されている人


(皆にじゃない、たった一握りの人間だけかもしれない)

(それでもあなたは愛されているのです)




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