第十二話 放課後の屋上と「名前で呼ぶ練習」

 六時間目の終わりを告げるチャイムが、少しだけ長く伸びた。文化祭前の特別編成で、放課後の準備は授業扱い。黒板の端には「装飾」「買い出し」「広報」の三つの列があって、俺の名前はでかい字で「掃除・整頓」に貼られている。神谷先生が「役割は役割、ロマンはロマン」と名言っぽいことを言い残し、両手に大きなガムテープを提げてどこかへ消えた。

 ほうきで床を掃いていると、砂埃の匂いが今日だけさっぱりしている。体育祭の砂と、教室の砂は同じ砂のはずなのに、混ざると別の匂いになるのが不思議だ。机の脚を持ち上げるたびに、足もとで少しずつ世界が軽くなる。タカヒロは雑巾を手に、床のシミをすべて歴史的価値に認定しようと奮闘している。ハルカは「広報」の腕章をして、手作りのポスターに小さな星を描き足していた。

「おいユウト、隅のほこりは存在を主張してるぞ。目を合わせるなよ。ついてくるから」

「ほこりは犬じゃない」

「いや、忠実なやつはだいたい灰色だ」

「なにか名言っぽいけど意味はないな」

「意味はロマンから生える」

「神谷先生の真似やめろ」

 そんな具合に、どうでもいい会話で手を動かしていると、教室のドアが静かに開いた。のぞき込む顔。ポニーテールではないけれど、耳の後ろで留められたピンが夕方の光を少しだけ跳ね返した。

「……屋上、行こ」

 桐ヶ谷ミサ。いつもの小さな声。それでも、教室の空気はその一言でほんの少しだけ澄む。

「え?」

「人いない。……話ある」

 それだけ言って、彼女は視線で合図した。俺はほうきを立てかけ、タカヒロに「水道の雑巾しぼりよろしく」と丸投げした。タカヒロは親指を立てる。

「隣氏、行ってこい。歴史的価値は俺が磨いとく」

「値段はつかないけどな」

「価値は値段じゃない」

「急にいいこと言うな」

 廊下は、日が傾くと急に広く見える。階段を上るたび、窓の外の白い雲がゆっくりと色を変える。屋上へ続く鉄の扉は、今日は鍵が外されていた。押し開けると、風がすぐそこにいた。

 夕方の屋上。フェンスの向こうで校庭が小さくなり、隣の公園のブランコがからん、と金具を鳴らす。空は薄いオレンジに薄い水色を混ぜたみたいで、溶けきらない絵の具が端のほうに残っている。グラウンドの白線は昼の熱を少しだけ覚えていて、遠くに止めてあるトラックの荷台に段ボールの影がのびていた。

 ミサはフェンスにもたれ、ポケットから小さなヘアピンを取り出して、前髪の端を少しだけ留め直した。彼女が風に押されるみたいに、言葉を前に出す。

「……ねえ。私のこと、下の名前で呼んで」

「えっ」

 声が裏返るの、久しぶりだ。のどの奥が勝手に驚いて、口の形がまるで準備していなかったみたいに固まる。

「“桐ヶ谷”って、他人みたい」

「いや、それは……」

「……練習だから。はい、どうぞ」

 練習、という言葉はずるい。失敗しても許してもらえそうに聞こえる。許してもらえるとわかると、失敗する気も倍増する。俺は軽く咳払いをして、口を近づけすぎない程度に、でも遠くなりすぎないように呼吸を整えた。ミサは一歩だけ近づく。ほんの少しだけ顔を上げる。目が、まっすぐ。風が、視界を横切る。

「……み、ミサ」

「聞こえない」

 即座に不合格。小テストで名前を書き忘れたときよりも気まずい。

「ミサ」

「聞こえる」

 彼女の口元が、かすかに動いた。笑ったと言い切るには足りないけれど、“合格”のはんこを心の中に押してくれるくらいの柔らかさはあった。俺は肩の力を一段落とす。

「……合格」

 そう言って、彼女はフェンスにもたれ直した。風が髪を後ろへ押し、ピンの銀色が一瞬だけ光る。

「なんで急に」

「昨日から、“好き”って乱発されてるの、ちょっと嫌で」

「うわ、俺じゃないよ」

「知ってる。……でも、名前で呼ばれたら、ちゃんと私のこと見てるのかどうか、少しわかる」

「なるほど」

「名字は、“クラスの桐ヶ谷”。下の名前は、“私のミサ”」

 最後の一語が、耳の奥でゆっくりほどけて、胸に落ちた。誤解のないように言うけれど、彼女は今のをほんの少し照れて言った。わずかに息がかすれて、目が逸れかけたのを俺は見た。

「じゃあさ、距離別に練習してみる?」

「距離別?」

「小声、普通、遠距離。三段階」

「なんの体育プログラム」

「文化祭前の特別講座」

「先生は?」

「私」

「はい」

 言い出したのは彼女だけれど、どこか嬉しそうに段取りを作るのがミサらしい。彼女はフェンスから一歩離れ、床のタイルの目地を境目みたいにして、それぞれの距離を勝手に決める。

「まず、小声。ここからここ。……呼んで」

「ミサ」

「うん、良し」

 彼女は軽くうなずく。次に、もう半歩下がる。

「普通。さっきより大きめ」

「ミサ」

「うん、良し。……最後、遠距離」

 彼女がくるりと背を向け、フェンス沿いに歩いて十歩ほど離れた。夕日に押される影が、床に二本、平行に伸びる。風が強くなる。名前は、風に弱い。俺は少し腹に力を入れて、声を飛ばした。

「ミサ!」

 空が一瞬、近くなった。彼女は振り向き、耳の横で髪を押さえて、笑った。

「……合格」

 合格の二文字が、胸の真ん中にまっすぐ刺さる。刺さると言ったら痛そうだが、不思議と痛くはない。代わりに、そこが熱くなる。

「じゃあ次、私も呼ぶ」

「え?」

「“ユウト”って」

 心臓が、雷も鳴っていないのに勝手に白く光る。屋上という広い場所が急に狭くなる。足もとのタイルの四角が、一枚ずつ意味を持ち始める。

「……練習、だからね」

 ミサがこちらへ歩き始めた。さっきと同じ三段階。最初の小声の距離で、彼女は一度だけ息を吸う。

「……ユウト」

 それだけで、背中がくすぐったい。肩のあたりがじわっと熱くなる。こっちは何もしていないのに、得点だけ加算されていくタイプのイベントだ。次、普通の距離。

「ユウト」

 言い方は淡々としているけれど、二度目のほうがやさしい。二度目のほうが、本当になる。最後、遠距離。彼女はわざと少し間を置き、風の音を聞いてから、まっすぐ口を開いた。

「ユウト!」

 その瞬間、空と地面の距離感が変わった。名前が飛んでくるって、こういう感じか。胸の真ん中がぽん、と鳴る。俺は笑い方を選べず、とりあえず全部混ぜた笑いになった。ミサは少しだけ首を傾ける。

「……合格」

「採点が甘い」

「甘くしてる」

「甘やかされてる」

「甘いの、好きでしょ」

「嫌いじゃない」

 会話の糖度が上がるのに、口の中は不思議とべたつかない。風がちゃんとバランスを取ってくれる。沈黙を怖がる必要がなくなって、二人でフェンスのそばに並んだ。学校の屋根の向こうに、街の屋根が続いている。信号の点滅が遅い心臓みたいに見える。

「……条件、決めていい?」

「条件?」

「今の、屋上限定」

「え」

「いきなり教室で“ミサ”とか“ユウト”とかは、……たぶん、照れる。だから、ここで練習して、ちょっとずつ距離を下げて、教室でもいけるようにする」

「体育会系の計画だな」

「体育祭で燃え尽きてないから」

「じゃあ、宿題は?」

「次の屋上までに、心の準備」

 彼女はまじめな顔のまま、ふっと笑った。「心の準備」という宿題が、今日一番まじめに思えた。

「ご褒美、つける?」

「ご褒美?」

「うまく言えたら、なにか一個。欲しいやつ」

「なにそれ、急に」

「動機づけ」

 彼女は自分の頬に指を軽くあてて考えるふりをし、そのまま俺を見た。目は、少しだけ面白がっている。

「じゃあ……うまく言えたら、放課後の買い出し、付き合って」

「それ、ご褒美?」

「うん。二人でいくと、袋が軽い」

 理由がささやかで、だからこそいい。俺は即答した。

「合意」

「法的な言葉、いらない」

 屋上の風が一段下がった。遠くの体育倉庫のシャッターががらりと鳴る。徐々に涼しくなる気温に肩をすくめると、ミサが自分のジャージのチャックを半分上げた。制服のブレザーは教室に置いてきたらしい。

「……ところで」

「うん?」

「さっき、練習で呼ばれたとき、顔がうるさかった」

「顔がうるさいって何」

「目、笑いすぎ」

「許してくれ」

「許す」

 ゆるす、という言葉の短さのわりに、意味は長い。彼女はフェンスから背中を離して、階段のほうを指さした。

「戻ろ」

「掃除、途中だった」

「うん。……歴史的価値、磨かれてるかな」

 教室に戻る階段は、来るときより短く感じた。扉を開けると、タカヒロが雑巾を肩にかけ、遭難した登山家みたいな顔をしていた。

「帰ってきた勇者たちよ。床のシミは滅んだのか」

「文明が滅んだみたいな言い方やめろ」

「文明は滅びては生まれる。で、お二人は急に名前で呼び合うの?」

「タカヒロ」

「はい」

「取材は屋上限定だ」

「ここ屋内です」

「だからだよ」

 ハルカはポスターに星をもう一つだけ増やし、振り返ってにやりとした。

「うんうん、語彙が甘くなってきた。これは恋の糖度表でいうと、ミディアムスイート」

「そんな表ないだろ」

「あるよ、私の頭の中に」

 あきれたふりをしつつ、どこかで救われているのも事実だ。騒ぎは人を疲れさせるけれど、笑いは少しだけ肩の力を抜いてくれる。

 掃除がひと段落した頃、廊下の向こうから神谷先生が戻ってきて、ガムテープを高く掲げた。

「よし、戦利品。段ボールは正義。工作は段ボールで八割できる」

「残り二割は?」

「心だ」

「ロマンはロマンで、役割は役割」

「よく覚えてるな、藤堂。じゃ、役割のほう、頼んだ」

 先生は黒板に明日の作業計画を書き、時計を見上げて解散の合図を出した。片付けの音が止む。教室の空気が軽くなる。

 帰り支度のとき、ミサが筆箱を閉め、鞄の口をきゅっと結んだ。俺のところに特に寄ってくるわけではない。ただ、いつも通りの速度で隣に並び、いつも通りの呼吸で言った。

「……また、屋上」

「うん」

「宿題、忘れないで」

「心の準備、ね」

「うん」

 昇降口で靴を履き替え、外に出る。夕焼けはもう薄く、街灯がオレンジの小さな円をいくつも地面に置いていく。校門を出る角で、ミサがふと立ち止まった。信号が赤に変わるのを待つみたいな顔。

「じゃあ次――」

「次?」

「私も呼ぶ。“ユウト”って。練習の続き」

 ああ、さっきの三段階は終わっていなかったらしい。彼女はほんの少しだけ顔を上げ、今度は距離を詰めずに、普通の声で言った。

「……ユウト」

 心臓が、また勝手に合図を送る。呼吸のリズムが一瞬だけずれる。彼女は小さく笑った。

「……練習、だからね」

「うん」

「合格」

「採点が早い」

「甘やかすって言ったから」

「はい」

 角で別れ、数歩歩いて振り返る。彼女は振り返らない。けれど、振り返らない背中には、ちゃんと“次”の余白がある。余白は、席一つぶん。明日の分の。

 家に帰ると、風呂場から湯気の匂いが廊下まで来ていた。湯に浸かったあとの体は、軽くて、ちょっとだけ無敵。机に向かって“今日の出来事メモ”を開く。ペンを握る手は、さっきよりも迷いが少ない。

 放課後、屋上。風、オレンジ。

 名前で呼ぶ練習。小声→普通→遠距離。合格。

 こっちも呼ばれた。小声の“ユウト”は危険。遠距離は落ち着くのになぜかもっと危険。

 屋上限定ルール発足。宿題は「心の準備」。ご褒美は買い出し同行。

 タカヒロ=文明。ハルカ=糖度表。神谷先生=段ボール。

 角での“ユウト”。合格。採点甘い。甘いの、嫌いじゃない。

 最後の行に、ゆっくりと定型句を書く前に、少しだけ考える。今日の“満席”の中身は、いつもより柔らかい。席は一つしかないのに、言葉が座れる余地が増えた気がする。よし、書こう。

 だが、俺の隣は今日も満席だ。

 満席という言葉の中には、屋上の風と、フェンスの冷たさと、呼び捨ての音が入っている。名字から名前に移る一歩の距離。小声から遠距離へ飛ばす声の強さ。その全部が、席一つぶんの中でうまくおさまる。

 ライトを消す前、スマホが一度だけ小さく震えた。画面には短い一行。

〈明日、屋上。宿題、見せて〉

 返事はもっと短くてよかった。

〈了解〉

 布団にもぐり、目を閉じる。明日、もう一度、あの三段階の階段を上る。上りきったところに見える空は、きっと今日より少し近い。名前を呼ぶたび、距離が一段ずつ縮む。そういう種類の練習なら、いくらでも続けられる。うるさく笑いすぎない範囲で。いや、たぶん少しうるさくても、合格だ。

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