第十一話 噂と、“好き”の定義

 翌日の朝の空気は、廊下の角を曲がった瞬間から違っていた。

 いつもの登校ラッシュの足音に、笑いを堪えて漏れたみたいな息の音が混ざっている。小声で名前を呼ぶ声、いかにも何か言いたげな視線。掲示板の前では、体育祭の写真コーナーの前に人だかりができていて、赤い布が額に結び直される瞬間だけ切り取られた一枚が、中心より少し上の、やけに目につく位置で光っていた。


 教室に入ると、俺の机の天板に白いチョークで走り書きがあった。

 赤組夫婦。ゴールイン確定。

 予想できた言葉が、予想通りの字の汚さで並んでいる。落書きは文字の形より、笑って書いたかどうかが出る。線が踊っているから、書いたやつは楽しかったんだろう。俺は一瞬だけ固まり、そのまま突っ伏した。


「俺、死んだわ……」


 顔を上げないまま言うと、すぐ横でイスが鳴った。タカヒロが、やけに明るい声を口に載せてくる。


「お前、いま世界規模でバズってる。うちの学校限定で」


「世界が狭いな」


「写真、拡散。どの角度から見ても青春。解像度高いの上がってる」


「撮ったやつのカメラだけ爆発しろ」


「その前に、お前の心が爆発してるのは知ってる」


 向かいの列から、ハルカが椅子をぐいとこちらへ寄せてきた。髪をひとまとめにして、頬杖をついた顔は、どこか楽しそうで、どこか本気で心配そうでもある。


「でも、いいじゃん。青春って感じ。あの写真、普通に映画の一場面みたいだよ?」


「映画ならエンドロールで静かに消えてほしい」


「残念。現実は続編が勝手に始まる」


 机の周りに、噂の波が寄せては返す。男子が茶化し、女子が笑い、誰かがスマホを見せに来る。俺はチョークの粉を指で拭い、落書きの“夫婦”のふの字だけが薄く残るのを見て、意味のないため息をひとつ吐いた。


 そのとき、教室の入り口でざわめきがほどけた。

 桐ヶ谷ミサが来た。

 静かに入ってきて、静かに鞄を下ろす。その動作だけで教室の音量が少し下がるのが、毎回不思議だ。靴音を響かせない歩き方も、姿勢も、ヘアゴムの色まで、いつもの場所にいつもの速度でおさまる。


「……くだらない」


 短く言い放ったのは、黒板の端に貼られた写真群を一瞥したあとだった。彼女はそれ以上何も言わず、自分の席に座る。落書きの残る俺の机が視界に入っても、眉をひそめない。代わりに、消しゴムを取り出して、すっと一回だけこすった。天板が木の色に戻る。


「ねえ、怒ってる?」


 小声で聞くと、ミサは視線をノートに落としたまま答えた。


「別に。……ただ、“好き”って簡単に言う人、多すぎ」


「え?」


「昨日から“桐ヶ谷が好き”って言ってる男子、五人見た」


「え、五人!?」


「くだらない」


 淡々とした声に、ほんの少しだけ棘が混じっていた。嫉妬というより、ため息に近い色。俺は思わず、両手を上げるみたいに弁解のフォームを取る。


「俺は言ってないぞ。言ってないけど……たぶん顔に出てる」


「出てる」


「やめとく努力はする」


「無理」


「即答」


 そこで、一限目の先生が入ってきて、黒板の前に立った。神谷先生は俺たちの列をちらりと見て、落書きの跡を見つけ、白い粉を指先で払うような仕草をしてから、わざとらしく咳払いした。


「おはよう。……まず最初に。人の写真を勝手に撮って勝手に騒ぐの、ほどほどに。教室はバラエティ番組じゃありません」


 教室中から「はーい」とやる気のない返事が響く。先生は続ける。


「それから、恋バレモードという言葉は、この学校のカリキュラムにありません。あるのは古文と数学と体育だ。体育祭で燃え尽きた人、燃え尽きたフリをしてる人、それぞれ起立。……冗談。座れ」


 笑いが波のように起きて、すぐに引いた。先生が板書を始めると、教室の音がいつものリズムに戻っていく。俺はシャープペンの芯を出し直し、右隣の気配に呼吸を合わせた。


 二限目の途中、廊下で誰かがふざけて走ったらしく、窓の外を影が横切る。ミサは一度だけそちらを見て、小さくため息をついた。鉛筆の芯がノートの罫線の上を滑る音が、妙に耳にやさしい。


 昼休み。

 弁当のふたを開けると、いつも通りの並びが顔を出した。黄色と赤と白。向かいからハルカがぬっと顔を近づける。


「ねえねえ、今日の卵焼き、一口交換しよ」


「いいけど」


 箸を伸ばした瞬間、ミサの箸がすっと横から伸びた。柔らかい動作で、俺の弁当から卵焼きをひとつ持ち上げ、自分の弁当の角に乗せる。そして、代わりに自分の卵焼きを俺の弁当に置いた。


「……それ、こっちのほうが好きだと思う」


「味、違うの?」


「うん。……甘い」


 彼女の言う“甘い”は、味のことだけじゃないのかもしれないと思って、舌の上で慎重に転がす。実際、甘い。危険なほうの甘さではなく、昼休みにちょうどいいほうの甘さ。ハルカが目を細める。


「はいはい、相互扶助。じゃあ私は唐揚げをもらっていく」


「強奪だろそれ」


「友好条約」


 タカヒロが横から顔を出した。


「おう、条約のついでに情報交換。告白の定義ってなんだと思う?」


「何の授業始めてんの」


「国語だよ。現代文。先生、今ここにいるから」


「うそをつけ」


「うそだよ。でさ、昨日のグルチャ、桐ヶ谷の『嬉しかった』。あれはもう告白の定義に入るのでは、という自治会からの意見があり」


 ミサは箸を止め、タカヒロを正面から見る。表情は変わらない。でも目の光だけ少し強くなる。


「……定義、好き?」


「うん、男子はだいたい定義が好き」


「そう」


 それだけ言って、彼女は弁当の蓋を静かに閉じた。会話はそこでいったん途切れる。教室の隅から、別のクラスの子が顔を出して「写真見た」と囁き、別の机からは「ゴールイン確定」の声が半分冗談で飛ぶ。冗談の半分のほうが、刺さることもある。


 午後の授業は、全体にふわふわした空気のまま進んだ。誰かの笑い声が少し大きくなり、いつもより消しゴムの落下回数が増える。先生の板書の漢字の一部が、やけに難しく見えた。ミサは淡々とノートを取り、俺はその横顔のスピードを目安にペースを整える。隣に合わせると、なぜか字の形がまっすぐになる。


 放課後。

 鞄を肩にかけようとしたとき、右腕の袖が軽く引かれた。振り向くと、ミサが目線だけで扉のほうを示す。言葉はないけれど、意味は分かった。


 階段を上がる。屋上に続く扉は、今は開いている。夕方の風が、コンクリートの匂いを薄めて、制服の袖に新しい空気を入れた。四角い空が近くて、雲の端が金色に縁取られている。グラウンドの白線は、今日の熱の名残みたいにまだ薄く残っていた。


「……昨日の、ありがと」


 ミサが言った。風に髪が揺れる。ポニーテールの跡がまだ少し残っているのが、夕陽で分かる。

「いや、こっちこそ」


 そこで、彼女は少しだけ間を置いてから、急に話題の中心を持ち上げるみたいに言った。


「“好き”ってさ、何?」


 問いは短いのに、長い意味を持っていた。俺は数秒、空を見る。言葉は用意していなかったから、用意していない言葉を探す。飾るほど薄くなる気がして、飾らないで出す。


「うーん……その人が笑ってると、自分も嬉しくなること、かな」


 風が間を運ぶ。ミサは数秒黙って、その間をちゃんと受け止めるようにしてから、ゆっくりとうなずいた。


「……それなら、私も“そうかも”」


「え?」


「あなたが笑うと、うるさいけど、少し安心する」


 うるさいけど、が先につくのが彼女らしい。俺は笑って、笑った自分の顔を少しだけ意識してしまう。


「じゃあ、定義の件は一致ってことで」


「……定義は、別に好きじゃない」


「でも、いま決まった」


「決めたのは私じゃない?」


「じゃあ、共同で」


「……共同は、嫌いじゃない」


 会話は、階段みたいに一段ずつ上がっていった。息が切れない程度の高さで。沈黙が怖くなくなる高さで。


「体育祭、楽しかった」


「うん、俺も」


「来年も、隣ね」


「二人で赤組、な」


 ミサの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑う、というほど大きくはない。でも、昨日の写真の中のそれより、今のほうが、近い。風が背中を押して、空が少しだけ低くなる。夕焼けの光で、二人の影が重なって、ゆっくり伸びた。


 屋上から戻る階段は、昇るときより短く感じた。教室に戻ると、タカヒロが廊下の掲示物に顔を貼りつける勢いで見入っていて、俺たちを見るなりニヤッとする。


「おかえり、定義カップル」


「誰がそんな登録した」


「自治会」


「解散しろ」


「解散は総会の議決が必要」


「総会どこだよ」


「俺の心だよ」


 どうでもいい応酬が、頭の熱を下げてくれる。ハルカが後ろから顔を出して「取材は明日」とだけ言い、去っていった。明日が普通に来ることを、誰かが軽く口にするのは、ありがたい。


 帰り道。

 夕焼けの色が濃くて、電柱の影が長い。道路脇の植え込みから、土の匂いが上がってくる。コンビニの前を通ると、ホットケースの光が、ガラス越しにやわらかい。信号待ちで、並んだ影が二つ、同じ方向へ伸びる。


「……ねえ」


「ん?」


「今日の噂、明日には半分くらい、別の話題になってる」


「早いな」


「早いよ。……でも、“隣”は、早く変わらないで」


「変えない」


「なら、いい」


 短いやり取りが、夜の入口をやさしくする。角を曲がると、彼女の家の前の灯りが見えた。


「……また明日」


「おう」


 そこで別れて、数歩あとで、俺はいつものように振り返る。振り返るのが習慣になっていることに気づく。彼女は振り返らない。でも、振り返らない背中に、ちゃんと明日の分の余白がある。余白は、席一つぶん。


 家に着いて、風呂の湯気が洗面所の鏡を曇らせる。湯上がりの体が軽くなって、部屋に戻る。“今日の出来事メモ”を開いて、ペン先を置く。

 落書き。白い粉。消しゴム。

 “好き”の乱発。数は数えない。数えたら、くだらなくなる。

 昼、卵焼き交換。甘い。危険ではない甘さ。

 屋上。風。共同の定義。うるさいけど安心。

 来年も隣。赤。

 明日の取材。たぶん笑う。


 最後の行は、いつも同じ形にしている。今日も、ゆっくり書く。


 だが、俺の隣は今日も満席だ。


 満席という言葉の中身は、日ごとに少しずつ入れ替わる。今日は、白いチョークの粉と、消しゴムの角、夕焼けの屋上と、定義という言葉のやわらかいほう。噂は速いけれど、席は急に入れ替わらない。机と椅子の距離は、明日も変わらない。息の合い方は、たぶん少しだけ上手になる。

 ライトを消す前、スマホが一瞬だけ光った。画面には短い一行。


〈明日も、隣〉


 既読をつけるのに、長い言葉はいらない。

〈もちろん〉

 送信して、暗闇に目が慣れるのを待つ。今日、定義は一つだけ増えた。嬉しいの定義。うるさいけど安心の定義。そして――満席の定義。椅子の脚が床を鳴らす同じ音が、明日の朝、また並んで響く。いい音だ。いい音は、長く聴いていたい。

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