第十三話 夏祭りの夜、手が離せなかった
セミが鳴く音は、教室のチャイムよりも雑で、でも夏休みの時間割をきっちり仕切ってくる。夕方の空が白から橙へ、橙から群青へ変わるころ、商店街の端に赤い提灯がひとつ、またひとつ灯り始めた。屋台の鉄板はすでに熱く、焼きそばとソースの匂いが風に乗って坂を上ってくる。子どものはしゃぎ声と、遠くの太鼓の練習音が混ざって、町全体が大きな腹の虫みたいに鳴っている。
家の玄関へ向かう足が、ついでみたいな顔をして、提灯のある方向へ曲がった。夏祭りは「行く」と決めてから行くよりも、「ついで」の顔で吸い寄せられたときのほうが、いいことが起きる。これは俺の持論だ。特に根拠はないけれど、根拠は焼きそばの匂いでだいたい上書きされる。
広場の手前。人の流れに飲まれる少し前の薄暗い場所で、足が止まった。前から、金魚柄の水色が歩いてくる。淡い水色の地に、小さな赤い金魚がちらちら泳いでいる。帯は白に近い銀で、涼しい川みたいに結ばれている。髪はいつものゴムじゃなく、簪でゆるくまとめられて、首の後ろに少しだけうなじが見える。うなじ、なんて言葉を口に出したら、さすがに殴られるやつだ。
「……来てたんだ」
桐ヶ谷ミサ。浴衣のミサは、ふだんの静けさを残したまま、どこかやわらかく見えた。水色が、彼女の声にぴったり合う。
「お、おう。似合ってる」
「ありがと」
言ってみてから、手のひらに汗がにじんでいることに気づいた。夏だからだと思いたい。彼女は鼻先で風を吸って、「ソースの匂い」と小さく言う。俺は「たぶん焼きそば」と答える。会話はやっぱり短いのに、意味は長い。
「ひとり?」
「うん。……そっちは?」
「ひとり。家の前を通ったら、提灯につられた」
「わかる」
わかる、という言葉が、浴衣だと普段よりやさしく聞こえる。屋台の明かりに誘われるように、人の流れへ合流する。肩が触れない程度の距離で歩く。金魚すくいの水音が、最初の涼しさをくれる。縁の水面に提灯の赤が揺れている。紙のポイに水が馴染む音が、耳に小さくまとわりつく。
「やる?」
「見る」
「やらない派?」
「やると、金魚が家で困る。見ると、金魚がここで泳げる」
「やさしい理屈だ」
「そう?」
横で見ていた小さい子が、ポイを一回で破ってしまって泣きそうになる。露店のおじさんが「はいもう一回」と予備のポイを渡した。ミサは金魚よりも、おじさんの手の動きをじっと見ていた。慣れた人の手を見るのが好きなんだ、と以前に言っていたのを思い出す。俺はチョコバナナの行列に目が行きつつ、財布の中身を頭の中でそっと点検した。数字で数えるとロマンが減るので、枚数は数えない。皮の厚みだけで判断する。足りる。たぶん。
「かき氷、食べる?」
「食べる。ブルーハワイ」
「色で選んだ」
「青いのは夏っぽい」
「舌が青くなるやつ」
「見せない」
「見せて」
「見せない」
並んで買ったかき氷を持って、屋台の影のベンチへ移動する。プラスチックのスプーンでそっとすくって、冷たさに目を細める。彼女は一口食べて、さっきよりも小さな声で「冷たい」と言った。頬にほのかな赤が差すのは、暑さのせいだけじゃないのかもしれない。俺のはイチゴ。甘さが派手で、夏がもっと派手になる。スプーンを差し出すと、彼女は一瞬だけ迷ってから、まっすぐに受け取って食べた。
「……甘い」
「そっちは?」
「青い」
「味じゃなくて色」
「味も、少しだけ甘い。少しだけって、いい」
「覚えておく」
かき氷のカップを持ち替えながら、屋台の並びをひとつずつ覗く。綿あめの袋が風に揺れて、袋の中の雲が夜空の雲みたいに見える。焼きとうもろこしのタレが焦げる匂いに、誰かの腹の音が負ける。ヨーヨー釣りの風船が光を吸って、手の中で小さな星になる。夏祭りは、光の勉強会みたいだ。どの光も、本気で楽しませようとしてくる。
射的の屋台の前で、ミサが立ち止まった。棚の上に、ぬいぐるみが並んでいる。小さめのクマ。色は薄い茶色で、首に赤いリボン。金魚柄の浴衣と合う。彼女は見上げて、少しだけ目の形を変えた。
「……ほしい」
その言い方は、ふだん彼女が使わない音だった。店のおじさんがコルクの弾を装填した銃を差し出す。ミサは両手で受け取り、姿勢を整え、片目をつむる。横顔のまつ毛が、提灯の光で一本ずつ見える。静かに引き金を引いた。コルクが飛んで、景品の箱に当たり、わずかに揺らして止まった。クマはびくともしない。
「……取れない」
「貸してみ」
銃を受け取って、俺は深呼吸する。的に当てるより、彼女の期待に当てるほうが緊張する。棚の縁とクマの足の隙間を狙って、反動でずらす作戦。こんな理屈を口に出したら恥ずかしいので、何も言わずに引き金を引く。コルクがクマの足元を叩き、クマがぐらりと動き、リボンが揺れ、そして棚から落ちた。拍手が起きるほどの大勝利ではないけれど、俺たち二人の中では十分に大勝利。
「ほら」
拾って渡す。クマは想像より軽く、渡した瞬間、手の中の空気まで軽くなった気がした。ミサは受け取って、胸の前で一回だけ押し、うん、と小さくうなずく。
「……ありがと」
「おそろいにする?」
「は?」
「だって、俺も取ったし」
「……ばか」
言いながら、頬を少しだけ染める。俺は同じ棚の端にあった小さいアヒルを狙って撃ち、今度はふつうに外した。おじさんが笑って「もう一回」と言い、二回目でなんとか倒す。アヒルは黄色くて、金魚柄の横でも負けない明るさだ。並んで持つと、色がやたら夏だった。
太鼓の音が近づいた。広場の中央で盆踊りの輪ができはじめる。踊りの手本をする町内会のおばちゃんの動きがやたら美しく、思わず見入ってしまう。ミサは輪には入らず、遠くから手だけ小さく合わせていた。踊れたらきっと楽しい、と彼女は思っている顔だ。俺は踊れないけれど、そのうち一回くらい、輪の端っこで真似してみようと思った。
「金魚、見に戻る?」
「ううん」
「どこ行く」
「神社」
広場の奥の石段をのぼると、小さな神社がある。屋台の音が遠くなって、鈴の音と木の匂いが近くなる。拝殿の横に腰かけると、風がさっきよりも涼しい。提灯の光はここまで届かず、代わりに月がそこそこ頑張っている。手水の水面が暗く光る。ミサは手を合わせ、小さく目を閉じた。
「何、お願いしたの」
「内緒」
「ずるい」
「内緒だから、叶う」
「俺は……そうだな」
「言うの?」
「言わない」
「ずるい」
屋台ではしゃぐ声が、ここではただの背景になった。時間が少しゆっくりになる。浴衣の帯が、座るときにきゅっと鳴る。彼女はクマのぬいぐるみを膝に置き、指先でリボンをまっすぐに整える。こういう几帳面さが、彼女の手には自然に宿っている。
「……髪、ずれた」
「え」
「簪、ゆるい」
「直す?」
「できる?」
「見る」
浴衣のまとめ髪は、俺の専門外だ。けれど、彼女が少しだけ頭をこちらへ傾けたので、逃げ道は用意されない。耳の後ろの髪をそっと押し上げ、簪の角度をすこしだけ変える。触れるか触れないかの距離。指が震える。彼女の息が、短く止まる。簪が正しい位置へ戻る気配がして、俺は現場監督みたいに無言でうなずく。
「……ありがと」
「どういたしまして」
会話の甘さが、さっきのかき氷の青さで中和される。そういうバランスが、夏には必要だ。境内の隅で、線香花火を売っている屋台を見つけた。細い紙の箱に、花火が束ねられて入っている。買って、石畳の端で火をつける。火は最初元気がよく、そのあとじっと落ち着き、最後に丸い玉になって、ぽとりと落ちる。
「落ちる前が、いちばん静か」
「わかる」
俺の火が落ちるのと同時に、彼女の火がふっと膨らみ、細かい火花がこぼれ落ちた。ふたりで笑う。笑い声は、大きくなくてよかった。誰かに聞かせるためじゃなく、ここにいるための音だった。
戻ると、広場の人混みはさっきより濃くなっていた。花火大会が始まるらしい。打ち上げの合図の放送が流れる。人の川が一方向に動き出す。小さな子がはぐれないように腕を伸ばし、大人が肩を寄せ合う。背中と背中がぶつからないように、でも離れすぎないように、空気の隙間を探すのは、なかなかの技術だ。
「危ないから、手」
思わず言って、思わず手を伸ばしていた。左手を。彼女の視線が、俺の手と顔の間を一往復する。
「いらない」
「でも――」
次の瞬間、誰かの肩が俺の背中に当たって、身体が半歩前に押し出される。反射で、彼女の手首のほうへ手が伸びそうになるのを、ぎりぎりでやめる。彼女は小さく息を吐いた。ため息じゃなく、決心みたいな音。
「……もう、仕方ない」
そっと、手が重なった。指が、聞いたことのない音で互いに挨拶をした。手のひらの温度が、心臓の鼓動に合わせるみたいにすぐに同じ速さになる。手をつなぐって、こういう感じか。理屈で考えるとどうでもよくなる種類の情報だ。理屈はこの際、かき氷のカップに捨てる。
「離さないで」
「離さない」
この短い会話の中に、やたらたくさんの誓いが入ってしまった気がして、少し照れる。けれど指は、照れと関係なく強くも弱くもならない。ちょうどいい力加減で、ちょうどいい距離を保つ。そのちょうどよさは、隣の人がくれる。
人の波の合間を抜けて、川沿いの土手に出た。夜の風は、屋台の熱をほどよく冷ます。遠くで一発目の花火が上がり、少し遅れて音が届いた。空の黒に、大きな丸い明るさが咲いて、すぐに散る。散るのに、咲いたことだけはちゃんと残る。
「きれい」
「うん」
花火をきれいと言うのは、簡単だ。でも、簡単に言える言葉が一番本当のときもある。二発目、三発目。色が変わるたび、彼女の横顔も少しずつ色を変える。水色の浴衣に、赤、緑、金色。彼女はクマのぬいぐるみを片腕に抱えたまま、もう片方の手で俺の手を握っている。ちょうどいい力で。
「……今、舌、青い?」
「見せて」
「見せない」
「見せて」
「見せない」
同じやり取りでも、花火の下だと少し違って聞こえる。頭の上で咲く光に負けない会話って、案外静かなのかもしれない。大玉が上がる。空がやけに近くなる。彼女が少しだけ目を細める。まつ毛の影が頬に落ちる。彼女の手のひらの汗が、俺の汗と同じ温度になっていく。たぶん、心臓の速さも、同じ。
やがて花火は、最後の連発に入った。夜空に一斉に咲いて、一斉に消える。川面に光がちぎれて落ちる。人の群れが一斉に息を吐くのがわかる。終わり方って、どうしてこんなにうまいんだろう。終わることで、さっきまでの時間が丸ごと形になる。
「……来年も、行く?」
花火の余韻が、まだ空にうっすら残っているタイミングで、ミサが言った。声は小さいけれど、ちゃんと届く。
「行くよ。ミサと」
「……ばか」
ばか、の二文字が今日一番やさしい。やさしいまま、指先の力がほんの少しだけ強くなる。俺は「ばか」の使い方講座を開けるくらいには、いろんな種類のばかを知ってきたつもりだけど、今のはたぶん新種。夏限定のやつ。
人の流れが少し落ち着いたころ、土手を降りて商店街へ戻る。屋台は片付けモードに入り、鉄板はさっきより静かで、提灯は同じ明るさのまま、少しだけ眠そうだ。通りの角で、俺たちは足を止める。二手に分かれる場所。
「……ここで」
「うん」
手をつないでいたことを、ここでやっと意識的に思い出す。離す、という動作がこんなにむずかしかったことはない。彼女が少しだけためらい、つないだ手をゆっくりとほどく。指が最後の一秒だけ未練を見せ、すっと離れる。夜風がすぐにその隙間を埋める。埋めるな。埋めるけど。
「今日は、ありがと」
「こっちこそ」
「……それ、アヒル」
「おそろい」
「ばか」
クマとアヒル。小さい動物が二つ。彼女はクマのリボンをもう一度まっすぐにして、帯の間にすっと挟む。小さいのに、胸の前で存在感を主張する。帰り道に落ちないように、彼女は手でそっと押さえた。
「またね」
「また」
彼女が歩き出し、二歩、三歩で振り返らない。振り返らないけれど、帯の結び目がふわりと揺れて、なぜか俺に向かって小さく手を振ったみたいに見えた。俺はその場でひとつ息を吐き、夜空の名残を見上げる。花火はもういない。でも、匂いだけが少し残っている。ソースと線香花火と、夏の汗の匂い。ぜんぶ混ざって、まとめて夏だ。
家に帰ると、廊下は昼より涼しく、風鈴が忘れたみたいに一回だけ鳴った。部屋の机に座って、“今日の出来事メモ”を開く。ペン先が、ほとんど迷わず進む。
商店街、提灯に吸い寄せられる。
浴衣のミサ。水色、金魚、帯は銀。似合ってた。
金魚すくいは「見る」。やさしい理屈。
かき氷交換。青いのは少しだけ甘い。少しだけ、がいい。
射的、クマ。渡した。アヒル、おそろい。ばか。
神社。簪、直した。線香花火、落ちる前が一番静か。
人混み。手。離さない。
花火。舌は青くない。たぶん。
来年も、行く。ミサと。ばか。
最後の行は、夏休みでも変えない。むしろ、夏休みだからこそ、いつも通りで締めるのがいい。
だが、俺の隣は今日も満席だ。
満席という言葉の中には、汗の温度と、手のひらの速さと、花火の終わり方が入っている。指をほどいたあとに残る、小さな未練も。来年の約束は、ここに仮置き。席を一つあけておく必要はない。あけないほうが、約束は忘れない。
電気を消す。目を閉じる。まぶたの裏で、遅れて咲く花火がもう一回だけ光る。音は鳴らないけれど、心臓がちゃんと鳴る。いい音だ。明日も、あさっても、その次も。夏が終わるまで。夏が終わってからも。
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