フォボフォビア(恐怖症恐怖症)5話
「…まず、フォビアは何かわかる?」
「うん、さすがに知ってるよ。何かひとつのものに対して…えっと…本人の経験関係なしに、生理的だったりで抗えない恐怖を感じる現象?みたいな…。」
「そう、大体あってる。その現象自体は、フォビアと呼ばれる前から、恐怖症という名称で呼ばれて存在していた。
実際、今も恐怖症と呼ぶ人と、フォビアと呼ぶ人がいるから、同じものと考えて問題ない。ほとんどの場合はフォビア呼びだけど。」
フォビアについて説明しながら、パズルの手は止めず、麗もピースを渡す手を止めない。
次のピースを構えて待っていることを、内容が理解できている、異論はないという無言の同意だと受け取って、逐一ピースの受け渡しをしながらも話しを進める。
「…ここで話しは、なら何故、恐怖症のままではなくフォビアと言う名称が必要になったのかに変わるわ。症状に明確な違いがあるから、今からは、その症状がなかった頃を恐怖症、今の一般的な方をフォビアと呼んで区別するわね。」
話しの区切りごとに、自分の頭を整理する役割と、話しのフェーズが変わるという合図も兼ねて、普段よりも力を込めて、パチンと音が鳴るようにピースをはめる。
「簡単に言うと、理由はふたつ…。数の増加と、症状の変化。…まず、ひとつ目の数の増加は、恐怖症自体の患者数が世界規模で、所構わず急激に増えた。今じゃ、全員が当たり前に持ってるわ。元々、恐怖症というのは、10人に1人は持っているものというデータはあったけど、症状が私生活に影響を及ぼさない程度なら、治療も診断も必要なかったの。ただ、それでも、いきなり患者数が増えたとなれば、問題として扱わざるを得なくなる。…何よりも原因が不明なのが大きかった。」
自分ながら、恐怖症、フォビアの話しに関しては饒舌だなと思う。
ありとあらゆるものが曖昧な中、明確に理解していると言えるもの。
饒舌になるのも仕方ない。
とことん理由をつけて嫌わないと自分を護れない。
「…でも、その話しだと恐怖症があっても、よほどじゃなければ、わざわざ診断に行かないから明確に数値でわかるくらいには増えないよね?」
「そう、恐怖症を抱える人間が増えたとしても、さっきの通りなら、問題にはならない。ある日、いきなり今まで感じなかった恐怖症が発症したところで、本人がそもそも気付かないか、よほど日常に密接に、恐怖の対象が存在しなければ、自覚はあっても放置するのが大半で、患者数には変化が起きないはず。」
「うん、だからふたつ目の理由が出てくるの?」
「そう。」
また、パチンと鳴らす。
鳴らしているのは、指ではなく、パズルだが、まくし立てて話しを展開する様は、どこか推理小説の解決パートを彷彿とさせる。
悪くないと思う。
…実に面白い。
その台詞は、探偵ではないか…。
「患者数の増加として顕著に表れた理由は、恐怖症の性質が変化していたから。」
「変化ねぇ…。正直、そこら辺あんまり理解できてないんだよねー。」
「…そう?患者数が増えたと言っても、最初は恐怖症の診断に来たというわけではなかったの。何かわからないけど、症状としては幻覚が見える、幻聴が聞こえるという類の相談だったの。」
「そうだね。それが今は普通だね。」
…普通。
その言葉が気にかかり、受け取ったピースの角をカリカリと擦る。
一瞬、手のひらを閉じ、ピースを拳の中に閉じ込めて、先ほどと変わらないように、またパズルを再開する。
「…麗には普通なのね。」
「え!いや!世間的な話しだけどね!?」
言葉の意味を訂正しながらも、足の指が小刻みに動いているのが見える。
「…ふぅん…。」
訝しげな目を向けていると、どうしたら良いのか、わからないのか笑顔で乗り越えようとニマニマしだしたので、本題に戻る。
「…まぁ、今は気にしないことにするから…。話しの途中からになるけど、麗の言ったことは、合ってる。今は、恐怖症と聞いたら、その恐怖症に付随する幻覚、幻聴の症状も当たり前に含まれているけど、昔は、そんなことなかったの。似た症状で言うと、PTSDとかがあったけど、それは、実際に体験してトラウマとして脳裏に刻まれたものが、酷似した状況下でフラッシュバックする現象で、あくまで後天性、本人の体験に由来するものよ。」
「…それとは仕組みが違うの?」
「…多分。」
…明確に全てのフォビアがそれとは違うと言い切れるかは、わからない。
これに関しては、線引きが曖昧だ。
何か、実際に危害が与えられる局面を経験した後に、その対象がフォビアになることは普通にあり得る。
海で溺れた人が、それが原因で海が怖くなる、誰かに無視され続け、コミュニケーションが怖くなるなんてのは、あり得る話しだ。
原因がない産まれながらのフォビアだと思っていても、実は本人の記憶がないほど小さい頃に経験した何かが影響している場合もあり得る。
恐怖が故に記憶を忘れてることだって。
先天性、後天性という話しでは、必ずどちらかしかないとは言い切れない。
「…そうね、似てはいるわ。ただ、明確な違いとして提唱できることは、PTSDは、同じ状況、似た状況に直面した際に発現するから、本人にもプロセスは理解できる。フォビアの幻覚は、本人も気付かない微小な恐怖に反応する。恐怖が関係してるなら、状況が似てる似てない関係なく発現するの。無視される恐怖、溺れる恐怖、もしくは直感的な嫌な予感という恐怖、それぞれ状況と恐怖の質は違うけど、全部がフォビアの幻覚のトリガーになる。例えば、ニクトフォビアなら、それらに反応して全て視界が暗くなるみたいな決まったパターンの幻覚が発現するわ。実際に暗くなるという状況は要らないの。」
「…う〜ん、既視感じゃなくて、恐怖というひとつの信号で捉えてる感じ?」
「…そういう認識で良いんじゃない?一応、理解できてそうだから、ピース受け取るわ。」
「…う〜ん。」
斜め上を向いて、咀嚼しようと努めているようだ。
それは有り難いことだが、次のピースを用意する手が止まっている。
「まぁ、フォビアの症状なんて人それぞれだから、分かりづらいわよね。」
「…うん。そういえば、糸はフォビアないんだよね?かなり、理解してるみたいに話せてるけど…。」
額を拭う。
「…理解してるからよ…。ちゃんと咀嚼したから、検証したから、無いって言えるの。理解してないとあるもないも言えないわ。…だから、麗もね?」
受け取る手は震えていないだろうか。
1秒でもはやく、ピースを受け取ってパズルに集中する。
その他の時間も、隙間を空けないように話す。
何かに意識を割く。
でないと、また荒い呼吸か、それ以上の幻覚が出てくる。
…目の前のことに集中していれば、大丈夫。
「…理解しろって?…わかってるけどさ…もうこれがフォビアになりそうだよ…。」
「…それは困る…。別にもっと、わかりやすい判断基準だってあるわ。フォビアの幻覚は、フォビアの対象そのものには反応しないの。」
「そのもの?」
「例えば、さっきの例なら、ニクトフォビアは暗所自体には、視界が暗くなる幻覚は働かないわ。簡単に言えば、追い討ちがないの。ニクトフォビアの幻覚が発現するのは、暗所以外の恐怖に対してだけで、暗所をさらに暗所にはしないわ。つまり、フォビアを抱いてる対象そのものが現場にある状況で、さらに他の理由の恐怖が追撃してこなければ、プラマイゼロなの。フォビアそのものの恐怖自体はある、ニクトフォビアは、暗所自体は怖いし、暗所以外の恐怖には暗所の幻覚を作り出す。だけど幻覚そのものには恐怖は感じない。苦手なものだからパニックになったりはあり得るけど、自分が、どれくらい目の前の出来事に怖がってるかが、特定の幻覚で視覚的に認識できるというのが正しい。逆に幻覚が見えている間は、本物には恐怖を感じなかったりもする。そんな状況、稀だけど…。その場合は、ニクトフォビアでも暗所の幻覚が見えている内は、問題なく暗所を進めるという状況になる。…まぁ、恐怖症の対象が概念的なものになればなるほど、そういった定義は曖昧になるから、一概にそうだとは言えないわ。」
「…数学の難しい問題みたいだね。」
「世の中、大体そうじゃない。」
「…う〜ん…。」
納得いかないというように、手元の残りのピースの山をジャラジャラと崩している。
「…続き話すから。」
「…はい。」
しょんぼりしながらピースをこちらに向けてくるが、そう、見るからに落ち込まれていたら、受け取りづらい。
…落ち込んでいる様は、子犬のように見えなくもない。
今の状況だって、飼い犬の躾と見れば、そう見える。
…でも、私が麗からピースを受け取っていては、私がお手してることにならないだろうか?
…飼い主が飼い犬の言うことを聞いている。
…怪しい匂いがしないこともない。
まぁ、良い。進まない。
仕方なく、機嫌を伺うようにそっと受け取る。
「…ひとまず、フォビアの症状については、話せたわね?…だから、最初は、その幻覚、幻聴についての相談が世界各地で起きて、調べていくと、見える幻覚、幻聴が個人の持つ恐怖症と一致してるのがわかったの。」
「…そんな経緯だったんだ。全く知らなかった。常識っていうのは、案外中身を知らないものだね。学んだ学んだ!」
……。さっき続きを話すと言ったばかりだ。
「…一件落着みたいな雰囲気のところ、悪いんだけど、まだ話しは終わってないわ。」
「えぇーーっ!!」
今度は、前のめりになって、ガシャンとピースの山ごと、ぶち撒けた。
「私なんか悪いことした!?」
「…どういうことよ…。」
「そうじゃないと、割に合わないよ!学校はじまったばっかりなのに、何も入らなくなるよ!」
「今、話してることは、学校の勉強とは関係ないでしょ?」
「人には、詰め込める量に限界があるんだよ。」
自分の頭を叩いて、もう詰め込めるものはないと、主張してくる。
なんだか、どんどん図々しくなっていないだろうか?
「別に、応用でもない、ただの常識よ。それくらい詰め込めんで。」
「由来とか深く考えなくて良いから、常識なんじゃん!」
「誰が話してって言ったかは忘れないように。」
お前だと言うように、散らばり゙、こちらまで飛んできたピースを一枚取り、麗の額にデコピン代わりに当てる。
「うっ…!」
「わかったなら、手を出して。また、再開するから。」
「…わかったけど、もっとわかりやすいの、ネットとかに載ってない?」
「常識よ?あるには、あるかもしれないけど、わざわざ、そんなことネットにまとめられてる?」
「常識こそじゃん。」
「…そんなものなのね。」
まともにネットにさえ触れないから、そこら辺の常識、要領がわからない。
もしかして、世間知らずは私なのだろうか?
「糸は、フォビア調べる時、ネット使わなかったの?」
「そこまで、覚えてないわ。…気付いたら、知識としてあった。地頭が良かったのかも。」
意識してなかったが、周りと必要以上に関わらずに最小限の会話、授業、見聞きでやってこれた、この頭には感謝しなければならないのかもしれない。
特に、目の前にいる、スマホに顔を近づけては、にらめっこのように顔を歪ませ、遠ざけてを繰り返している人物の日々の苦労っぷりを想像すると、本当にそう思う。
「じゃあ、糸はネットで調べなかったってこと?」
「そう言ってるじゃない。」
「…ふーん。」
忙しい顔が落ち着いたと思ったら、なんだか企みを隠した怪しい目でこちらを見てきた。
「…本当に良いの?」
なんだろうか、そのにやけ顔は。
「…な、なに、が?」
「いや〜、良いのかなって思ってさ〜。だって、要するに糸の知識は一回とか数回程度の見聞きで得た知識なんだよね?…そんなの信じて良いのかな〜、信憑性ないんじゃないの〜?」
「…散々、説明したのに信じれないって?」
「…フッ。」
スマホをカードのように振って、余裕の表情で、胡座をかいている。
そんな態度をとられては、まるでそのスマホの中に、何かしら重要な、チェックメイトにも等しい、こちらの間違いを指摘出来る材料があるみたいではないか。
なんということはないが、まるで誘拐犯に娘を人質にとられてる親のような、そんな状況で娘の安否を確認したければ、みたいな明らかに、こちらが不利な状況な気がしてくる。
少しずつ、日が傾いてきて、明かりのついていない部屋が、一層暗くなり゙、緊張感が増してきたことも関係あるのだろうか。
あと、そんなに振って、落とさないのだろうか。
「一回程度の見聞きでは、信じれないなー。ネットはね、そういうものを、比べて精査するためにあるんだよ?」
自分の服の裾を掴む。
「常識はね、疑わないと駄目だよ。真実はひとつとは限らないんだな、これが。…全部、嘘かもしれないよ?」
さっき、由来を深く考えなくて良いと言っていたのは、どこのどいつだ。
「そんなことない、真実はいつも…!」
…!
すんでのところで、言いかけた言葉をしまう。
危ない、また、どこぞの名探偵のようになるところだった。
そのフレーズにせよ、他の言葉にせよ、言いたいことは変わらないので、フレーズだけ避けて、そのまま言いたかった内容を言う。
「そんなの、わからないじゃない!色々調べるとかえって遠ざかることもあるわ!ネットの中で間違った情報が広がってたり、デマだったり!」
「信じられるのは、我が身ひとつと?」
「…私、ストイックな格闘家じゃないんだけど…。」
…何か違う気がするけど、相手の意見を否定できるなら、それで良い。
「もう…それで良いわよ…。」
「…キラーパンサー?」
「…は?」
「キラーパンサー?」
…は?
…なにが?…なにが、ドラクエのモンスターなの?
どこに、そんな要素あった?
「…ベビーパンサー?」
小さくなった…!
「ベビーパンサー?」
「…え、いや、その…。」
なんの選択を迫られてるの!?
「…えーっと…他、他は……あ!…キラーアーマー?」
…また、新しいモンスター。
逃げるを選択しても、回り込まれてしまうのだろうか。
…一体、この三匹の共通点は…。
…まさか。
「…ファイナルアンサーって言いたいの?」
「おぉ!良くわかったね!普通に言ったらつまらないから!」
「…最初から言えるなら、そう言って…。危うく、無防備のまま魔物と闘わされるところだったわ…。…あと、キラーパンサー、キラーアーマーでキラー被りよ。もじりも一文字程度と伸ばし棒しか合ってないし…。」
「ドラクエは知ってるんだね。」
「私自身、驚いてるわ…。」
…頼むから、振り回さないで欲しい。
「でも、ツッコミはちょっと弱い。かなり弱いかも。芸人になれないよ?大喜利もままならない。」
「…はぁ?…まぁ、ファイナルアンサーよ。…それもちょっと違う気がするけど…。私の言ってることは正しい。私のフォビアの説明は何も間違ってない。」
そういえば、そんな話しだった。
自分で言いながら、なんの話しをしていたのか、わからなくなる。
「へぇ、そうなんだ。なら問題なし。パズル続きしよっか!説明も続きから良いよ!」
持っていたスマホを床に置いて、何事もなかったかのようにピースを拾い、構えている。
動いてもいないのに、かいた汗を拭う。
「…いやいや、何か、私の説明の間違いを指摘出来るものが見つかったんじゃなかったの?」
「…ううん。何もないよ?」
「…はぁ!?…痛っ!?」
今度は、こちらが前のめりになって、ピースの山をぶち撒けそうになる。
大体のピースは、また麗のもとへ回収されているから、残ったピースの角が手に刺さり、痛みが襲う。
そのまま腕に伝わり、ジーンとなる。
「…ふざけないで…!」
「さっきまでは、ふざけてたけど、これはふざけてないよ。」
こんなことで泣きそうになっているのが、色々と染みる。
「…とにかく!さっき開いてた画面を、見せて…!」
パズルのピースなんて、目もくれず、床に置かれた麗のスマホへと一直線に手を伸ばす。
「…あぁ!」
拾い上げる。
「一体、何が書かれているの…!」
己の間違いを真正面から受け止めるのは、抵抗感を覚えずにはいられない、もし、私の説明に大きな間違いがあり、それを自慢げにつらつらと語っていたのなら、顔から火が出るくらい恥ずかしいだろう。
他人のスマホを勝手に乱暴に取り上げるのは、人としてどうなのかと冷静になりかけるが、そんなこと自覚してしまったら、長々語った分の恥ずかしさごと呑まれてしまいそうで、今は感情に任せ、麗のスマホの画面へと目をやる。
…どんなごとが書いてあるのか…!
…見えた!
まず、目に入った文字は、リゾート…!
リゾート?
「…へ?…遊園地…のホームページ…?」
「…だから、言ったじゃん。」
…何が起きた?
「…なに、この……これ、なに…?」
「だから、遊園地のホームページ、知らない?」
「……そ、そう…?…待って、ちゃんと…見るわ…。」
…髪が熱い。
髪というか、髪が触る肌の感覚が熱くてはっきりしてる。
特に耳元が熱い。
髪の毛、一本一本が揺れ、かすめたり触れたりしている様子が、感触だけで、見ているように想像できそうだ。
…動かない頭を無理やり思考させて、ホームページに記載された文字をたどる。
顔の近くに何かないと、安心出来なくて、空いている片方の指で、大げさになぞりながら、たどる。
時々、頭を振ったり、掻き上げたりしながら。
…正直、読んでいる限り、思い当たる場所はない。
知らない場所で間違いなさそうだ。
「…ひと通り読んだけど、知らない場所だわ。…そもそも遊園地なんて、ひとつも詳しくは知らなかったわ…。」
そう言って、ふぅっと一息吐き、スマホを返す。
少し頭に血が上りすぎていただろうか。
視線を落とすと、途中で止まっているパズルが目に入る。
…そこまで進んでいるわけではない。
再開する気が起きるかと言われれば、起きない。
フォビアの説明だって、まだ話してないことは、色々ある。
だって、過去についてしか話していない。
物語で言えば、プロローグ辺り。
でも、それも今から掘り起こして続きを話す気には、中々ならない。
麗への疑いすら、散々振り回されて、霧散しているに等しい。
色々、状況を工夫したのに、このザマでは、私の集中力を維持したまま麗を疑い続けるのは無理なのかもしれない…。
もし、これが全て麗の計算通りなら、完敗だ。恐ろしい。
「…麗が、変なことするから、変なことになったじゃない…。」
「頭痛が痛いみたいになってるよ、多分。」
やれやれ、と額をおさえる。
「…それくらい、頭が回ってないのよ…。」
人前で、はしたないが大の字で床に寝転がる。
…床の冷たさが心地良い。
「でも、まぁ良かった。糸、見る限り体調悪くなさそうだね…。」
「…人が大の字で転がってるところのどこを見て、そう捉えられるのよ…。」
「…なんというか、最初は、ちょっと苦しそうだったから、それに比べたら。」
「今は、苦しくないように見えるって言いたいの?」
本当に、どこをどう見て、そう言えるのだろう。
「うん…だって、笑ってない?なんだか、満足してるように見える。」
「…呆れ笑いよ…。満足じゃなくて、動く体力がないだけ…。」
「私、糸の扱い方わかったかも。」
「わかってない。」
せっかく寝転んだ身体を、あまり動かしたくないので、少しは麗の方へ向く努力はしたが、諦めて目を閉じて、耳だけで感じることにする。
何かに満足したように、笑っているのは、そっちじゃないかと言いたくなるような弾んだ笑い声が聞こえてきた。
声に出して指摘してみたくなったが、面倒くさいので、心の中だけに留めておいた。
目を閉じると、ぼんやりと昔の記憶が重なった。
…あぁ、確か、あの頃も、公園で遊び疲れたり、帰るのが嫌だったら、汚れることなんか気にしないで地べたに寝転んで、こうやって麗の笑い声を聞いて、疲れを癒していた気がする…。
今みたいに、空が暗くなってきたら、ほとんどそうしていた。
あの日の出来事が、あの日の麗の姿が衝撃的すぎて、他の日の出来事を忘れていた。
…それもそうだ。会わなければ、残る記憶は、衝撃が強い断片的、抽象的なものだけになっていく。
別れが刺激的で今の私の人格形成に関わっているなら、尚更だ。
あの頃は、フォビアなど関係なかったではないか。
今、語れる常識なんて気にしなかったし、知らないことばかりだった。
…二人は変わったのか…。
変わっただろう。思い出したことで、今、確実にそう言える。
少なくとも私は、変わった。
だから、思い出した記憶も、程々でしまい込んで、私は今の私の答えを出さなければならない。
今の私で、麗と関わっていけるかを。
「…ごめん。」
一体、誰に対しての謝罪なのだろうか…。
ただ、口から出ていた。
「…何か言った?」
「…いや…疲れたから…ごめんだけど、このまま寝るって言ったの…。」
「…パズルとかは、良いの?」
「…また、別の機会にする。今、話されても、入らないんでしょう?…パズルは、やるならやってて良いわよ?」
「…音がしそうだし、やるにしても、糸が寝てからやろうかな。」
「…やらないでしょ。…まぁ、良いわ…帰るつもりはないのね…。」
「うん…もう少し居たいから。」
「…そう。」
…本当に、眠たくなってきた。
「ベッドじゃなく良いの?」
「…もう、ここで良いわ…。」
「痛くない?」
「…ふぁぁ……冷たくて、快適…。」
「良し!じゃあ、糸が寝るまで、膝枕を…。」
……頭が回らない。
「…寝てから、やって……。」
「…やります!」
「…うるさい……。」
「…すみません。」
……そろそろ、軽口を入れるのも、難しくなってきた…。
案外、眠気が急速に回っている…。
「…ねぇ、糸?」
「…なに……?」
「…話したいこと、あるんだけどさ…今、ちょっと良い…?」
「……寝てから、やって……。」
「意味がわかりません。」
「……わたし、も……。」
「…はい!わかりました!起きたら話します!」
「………寝てから…そう、して……。」
「…うん。」
…頭の下に、何か柔らかくあたたかいものが、あるのを感じるが、もう、それがなにか、考えるような思考力は残っていない……。
心地良いなら、それで良い…。
「……ねぇ…麗……いる……?」
「…はいな。」
「…ふふっ……なに、その返事……。」
そんな意味不明な会話を最後に、私の意識は深い睡魔の中に落ちていった。
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