傷を刻む秩序
@daisangendesu
第1話 目覚めの錆
宇宙は冷たく、無言だった。
掘削プラットフォームの外殻に残る焦げ跡がキャノピー越しに瞬き、微粒子がライトにきらめく。ヴィン・カミシロ、二十八歳。前線パイロットで掘削護衛班所属の連邦空挺隊准尉だ。コックピットに沈み込み、彼は操縦桿を軽く握りしめる。下方、破損した作業モジュールの開口部に一つの人影が浮かんでいる。姿勢は定まらず、通信は途切れ途切れだ。だがスーツ本体に致命的な裂傷は見えない。外付けセンサーとアンテナが欠けているだけだった。
「二時、テンション低下。通信ノイズ多め、アンテナ被害の可能性」
艦外整備班リーダー、ウルフの声がヘッドセットに入る。ヴィンは機体の微細姿勢を補正し、救助カプセルの狙いを合わせた。無重力では一センチのずれが命取りになる。呼吸を整え、機体と同期するように心を静めた。
グラップルアームが伸び、作業員は朦朧としながらも腕を伸ばしフックにしがみついた。カプセルはソフトロックで機体に戻され、医療モジュールが即座に稼働する。生体モニタは不安定だが呼吸はある。艦のAIソフィアが淡々と指示を吐き、「低体温対策、換気補助、ドック到着後フィルタ交換」。ヴィンは肩の力を抜き、短く安堵の息を吐いた。救助はいつだって重い。
引き上げの間、彼の手は無意識に左手甲の古い火傷痕を撫でていた。習性だ。胸の奥には、以前の旅客船事故の影がいつも張り付いている。ほんの一瞬の見落としで、幼い子供を目の前で失った記憶。哀願のように開かれた小さな手の指先は、ヴィンの視界に消えない癖になっていた。
帰艦コースの流れで端末の救援ログサマリに目を取られた。通常連続するはずのタイムスタンプが断片的に欠け、いくつかが「通信断」「未確認」と処理されている。不穏なのは誰かのIDが割り込み、救助順が書き換えられていたことだ。ヴィンは数字を指でなぞり、冷たい違和感が背筋を走るのを感じた。
ハッチの傍らでウルフが小さなメディアケースを抱えて待っている。表面には焼けと擦り傷、焦げた粉が付着していた。
「現場から上がった自律バックアップ。物理ログだ。表面はやられてるが中身は残ってるかもしれん」
ウルフは低く言った。ヴィンはそれを受け取り、内ポケットへ滑り込ませる。金属の冷たさが掌に伝わると現実が固まった。
端末に接続した断片ログは、断続するバイト列の合間に不自然な挿入を示していた。救命プロトコルの一部が上書きされ、本来優先回収されるべき識別符が別の受信経路へ振られている。救助自体は成功しているが、データの列には偶発ではなく意図の影が残っていた。ヴィンの指先がわずかに震えた。
「上に上げるか?」
ウルフが囁く。上に持って行けば手続きとしては正しい。だがヴィンの頭には港の給水ラインの行列や、仲間たちの細々とした暮らしが浮かぶ。短絡的な告発で自治領の日常が壊されることを彼は計算した。裏取りと証拠を固める必要がある。
「今はまだ。まずは裏取りだ。証拠が不十分なまま突っ込めば潰されるだけだ」
彼は慎重さを選んだ。ウルフの顔が曇る。だがウルフは端末を軽く押し込み、眉を寄せた。
「軍が来たら現場のバックアップは全部持って行く。ログもね。俺らが守れるのは今のうちだ」
時間の輪郭が鋭く切り取られた。
艦内スピーカーが割り込み、機械的な声が冷たく響いた。
「こちら第七機動艦隊指揮。旧連邦指定鉱区の事案につき、国家保全条約に基づき機動救難ユニットを派遣。管轄は移管された。非関係者は退去せよ」
旧連邦指定──重要インフラに付された優先管轄の表示を見て、ヴィンはここが民間単独では対処できない区画だと再確認した。
数分後、黒い救難艇がドッキングアダプタに滑り込むように姿を現した。甲冑めいた救難スーツの影、胸の国家章。制服の士官たちが艦内に入ってくる。先頭の女性将校は硬い面持ちで歩み、胸元に肩章を掲げた。短く挨拶すると端的に言った。
「第七機動艦隊救難分隊、カレン少佐だ。現場記録に即時差替痕跡があるとの通報を受けた。貴艦のログを一時押収する。手続きに従え」
言葉は規定通りだ。通信が切れると、甲板の空調が一瞬だけ高鳴った。カレンの指先が微かに震え、近傍のLEDが短くちらつく。彼女は顎を引き、唇を固く結んだ。若い兵士が横で「上の指示です」と事務的に繰り返す。声は平坦だが、その瞳はまだ若く、視線は一瞬メディアケースのあるヴィンの掌へ落ちた。それは悪意ではなく、命令を運ぶ無垢な道具の気配だった。
艦内の空気が変わる。ヴィンは内ポケットのメディアに触れ、掌の中の冷たさを確かめた。軍の手は早く、重い。証拠を守るための時間は限られていると直感した。
そのとき、コックピット横のハッチが静かに開き、別の女が一歩踏み込んできた。服は簡素だが無駄のない仕立てで、動きは厳格に計算されている。胸元に紋章はない。代わりに掌の小さな経巻の端切れを指先で軽く示した――戦服と宗教の断片が同居する、不協和な合図だ。彼女は目を細め、声を低く落とした。
「隠せば、より大きな秩序のために傷が広がる。恩寵のためだ」
台詞は曖昧で威圧的だった。ヴィンは言葉を探したが出ない。女の立ち振る舞いは実行者ではなく、監督者であり取引者であり評価者のようだった。視線は一度だけカレンへ滑り、短く頷いた。二人の間に見えない合意があるとヴィンは感じた。
外宇宙では祭礼のネット配信が遅れて届き、総司教アルベルトの祝辞が背景で反響している。演壇の穏やかな声と艦内の冷たさが不協和音をなす。ヴィンはふと、端末の断片ログに残る小さなメタタグを思い出した──通常の軍識別子とは異なる、儀礼用の暗号片。解析すれば特定組織の「秘儀研究部門」に繋がるかもしれない。頭の片隅で、かつて噂で聞いた組織名が浮かんだ。グレイス・コンコード──恩寵会。
その名は公には慈善と救済を説く組織だが、裏には医療研究と儀礼的実験を抱える幹部層が存在する。表舞台の総司教アルベルトは祝辞で安定と救済を説くが、幹部の中にはイサベルのように情報を操る者、ソフィアのように現場の苦悩を抱える者がいる。ヴィンはメディアケースの金属に指の先端を押し付け、静かに決意した。これをただ上に預ければ、真実は闇の中へ消える可能性が高い。
メディアが示すかすかな識別符が、誰かの正当性を揺るがす証拠になるのなら、見逃せない。仲間の暮らしと、失われた命の重さが彼の胸を締め付ける。ヴィン・カミシロはメディアケースをぎゅっと握り直し、息を整えた。
次に動くのは、自分だ。
そしてその動きは、仲間を守るための第一歩であると、彼は知っていた。
傷を刻む秩序 @daisangendesu
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